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更新日:
2015年1月3日
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◎光明寺
光明寺はJR氏家駅(栃木県さくら市)から東に歩いて10分ほどの所にある真言宗の寺です。露天に鎮座(露座)している青銅不動明王坐像(県指定文化財)があることで有名なお寺です。
さくら市南部にある勝山城の城主芳賀氏が、城の近く美女木地区に1427年(応永34年)に創建したと伝えられています。その後、1597年(慶長2年)、宇都宮氏の改易に伴って勝山城が廃城となると、光明寺も現在の位置に移転されたと言われているようですが、江戸時代に何度か、火災や水害にあって記録が失われているため、正確な時期は分かっていないそうです。
山門をくぐると、身の丈2.94mの青銅造不動明王坐像(せいどうぞうふどうみょうおうざぞう)が目に飛び込んできます。右手に煩悩を断つ宝剣、左手に魔を縛す羂索を持ち、悪を降し、衆生を守るという不動明王は氏家でも古くから信仰を集めてきました。
1723年(享保8年)の五十里洪水や大火など、災難が相次いだことから氏家宿の安穏を願った光明寺住持第十二世、権大僧都法印廣栄菩提の発願によって宿の浄財を集め、1759年(宝暦9年)、宇都宮藩の御用鋳物師、戸室卯兵衛(とむろうへい)が71歳の時に鋳造したものです。後背の火炎を含まずに2.94mの高さがあり、右手に宝剣、左手に衆生済度の象徴である羂策を握り締めています。丈六仏と言われる大きな仏像であるため、奥州街道を1800分の1で描いた絵巻物「奥州道中分間延絵図(おうしゅうぶんげんのぶえず)」にも、その姿が描かれています。
2007年〜2008年に行われた修理によって、火災光背の赤色が弁柄(酸化鉄)を使っていたことや、鋳造技術が高く、部分ごとに鋳造して組み上げ、中が空洞でもしっかり支えていることなどが分かりました。また、欠損していた左足部の光背も復元しました。
なんと、この像を鋳造した時の木型である「木造不動明王坐像(もくぞうふどうみょうおうざぞう)」も残っており、仏像として信仰を集めていたそうです。現在は、栃木県の文化財として指定されており、さくら市の美術館であるミュージアム氏家に展示されています。 また、「感満石」と呼ばれる丸い石が置いてあります。この石は、古来より御不動様の御前に置かれていたもので、「感(思いが)満(満たされる)石」の名の通り、この石に手を触れて、心をこめて願い事をすると、その願いが満たされると伝えられているそうです。
そのほか、さくら市(旧氏家町)出身の画家、荒井寛方の墓もあります。荒井寛方は、1878年(明治11年)、氏家町に生まれ、21歳の時に上京して、浮世絵師の水野年方に師事し、後に岡倉天心や横山大観などと知り合い、日本美術院の同人となりました。1916年(大正5年)、インドの詩人で、アジア人としては最初のノーベル文学賞を受けたタゴールに招かれてインドに行き、日本美術を教えるかたわら、アジャンタ壁画の模写を行い、日本画に新しい風を吹き込みました。後に仏画の寛方と呼ばれるようになります。寛方は、1940年(昭和15年)から法隆寺金堂壁画の模写に取り組みますが、1945年(昭和20年)4月、法隆寺に向かう途中の福島県郡山駅で急死しました。享年67歳でした。なお、墓碑銘は画友の中村岳稜が筆を取ったものです。

山門をくぐらなくても不動明王が、こちらを向いているのが見えます。

山門をくぐると不動明王の周りに何もないことが異常に見えます。

だんだん近づいて行きます。

こんな感じで睨みつけられています。

近くには感満石があります。



・光明寺(こうみょうじ)
住所:栃木県さくら市氏家2696
電話:028-682-8743
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