メニュー
TOPページ
観光地
地域情報
日本のホテル
日本のニュース
日本について
海外事情
海外のホテル
食品の話
雑学
用語辞典
リンク
更新日:
2025年8月5日
|
◎花園神社(2022年5月22日)
「花園神社(はなぞのじんじゃ)」は、東京都新宿区新宿にある神社です。創建の由緒は不明ですが、徳川家康が江戸に入った1590年にはすで存在しており、大和国吉野山よりの勧請と伝えられているそうです。新宿の総鎮守、街の守り神として祀られています。
江戸初期の1699年(元禄12年)、この地に甲州街道の宿場の1つ、内藤新宿(ないとうしんじゅく)が開かれると、その鎮守として祭られるようになったそうです。宿場名である内藤新宿は、以前よりこの付近にあった「内藤宿」に由来するそうです。
当時は現在地よりも約250メートル南(新宿3丁目交差点付近)にあったそうですが、寛政年間(1624年〜1644年)に、その地を朝倉筑後守が拝領し、その下屋敷の敷地内となったため、参拝ができなくなりました。そこで氏子がその旨を幕府に訴えた結果、徳川御三家の筆頭、尾張藩の下屋敷の庭の一部である現在地を拝領し、そこに遷座したそうです。
その場所は尾張藩の庭で多くの花が咲き乱れていた花園の跡であったことから「花園稲荷神社」と呼ばれるようになったと伝えられているそうです。しかしながら、初めて史料に「花園神社」の名が登場するのは、1803年(享和3年)だそうです。大火に遭った社殿復興を願って内藤新宿町より奉納された額面に「花園社」と記されていたそうです。ただし、「花園」という名称が正式なものになるのは、さらに後代のことで当時は「稲荷神社」、または「三光院稲荷」、あるいは地名にちなんで「四谷追分稲荷」と呼ばれていたそうです。
「三光院稲荷」と呼ばれたのは、明治維新以前は神仏習合によって神社と仏教寺院が同時に祀られることが多く、花園神社も真義真言宗豊山派愛染院の別院である三光院が合祀されていました。このため三光院の住職が別当(管理職)を兼ねる慣わしで「三光院稲荷」と呼ばれたそうです。
しかし、その三光院は明治元年(1868年)3月に維新政府が祭政一致の方針に基づき神仏分離令を発布したことから、廃仏毀釈が進む中で花園神社と分離されました。本尊は愛染院に納められましたが、廃絶となりました。
江戸時代、花園神社は何度も火災にあって焼失しているそうです。1780年(安永9年)と1811年(文化8年)には、大火で焼失した社殿を再建するため境内に劇場を設けて、見世物や演劇、踊りなどを興行して好評を博したそうです。この興行は「三光院芝居」と呼ばれ、賑わったそうです。このようなことから、花園神社は芸能との縁が深いと言われています。
明治に入ると「村社稲荷神社」が正式名称とされたそうです。これは神名帳を提出した際に、誤って花園の文字を書き漏らし、「稲荷神社」で届出をしてしまったからだそうです。
しかし、江戸時代から「花園社」と呼ばれいたこと、単に「稲荷神社」といえば総本山である伏見稲荷神社を指すのが一般的で紛らわしいことから、1916年(大正5年)1月25日に当時の社掌、鳥居成功と氏子総代13名が東京府知事に対して社号の改名願を提出しました。この社号改名願は同年2月26日に許可され、正式に「花園稲荷神社」となったそうです。社殿は素木造り檜板葺で、千木を掲げた拝殿と土蔵造りの本社でしたが、太平洋戦争末期の空襲によって全焼してしまったそうです。
その後、1965年(昭和40年)に現在のコンクリート製の本殿に建て替えられ、その際に末社だった大鳥神社(祭神:日本武尊)を本殿に合祀し、正式名称を「花園神社」に変更し、現在に至っているそうです。境内には石造品等が多く、銅製の「唐獅子像」は、新宿区指定有形文化財(彫刻)に指定されています。


・大鳥居



・拝殿





・威徳稲荷神社

・花園神社
住所:東京都新宿区新宿5-17-3
電話:03-3209-5265
営業時間:
定休日:無
料金:無
駐車場:
アクセス:東京メトロ、丸の内線、副都心線、都営新宿線、新宿三丁目駅、E2出口から徒歩約1分
|