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更新日:
2025年8月5日
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◎平田神社(2022年5月22日)
「平田神社」は幕末の志士たちに多大な影響を与えた思想家、平田篤胤(ひらたあつたね)を神格化した「平田篤胤大人命」を祀っている神社です。
平田篤胤は、江戸時代後期の国学者、神道家、思想家、医者として知られる人物で1776年10月6日(安永5年8月24日〉、出羽国久保田藩(現在の秋田県秋田市)の大番組頭であった大和田清兵衛祚胤(としたね)の四男として生まれました。20歳となった寛政7年(1795年)1月8日、貯めていた500文を持って脱藩、出奔し、江戸に出ました。
江戸に出ると大八車を引いたり、5代目市川團十郎の飯炊きや三助、火消しなどをしながら、当時の最新の学問、とくに西洋の医学、地理学、天文学を学んだそうです。そして旗本の武家奉公人となったそうです。1800年(寛政12年)、篤胤25歳の時、江戸在住の備中松山藩士で山鹿流兵学者であった平田藤兵衛篤穏(あつやす)の目にとまり、才覚を認められて、その養子となりました。
1804年(文化元年)に「真菅乃屋(ますげのや)」を号して自立すると、書斎「真菅乃屋」を広く好学の人に門戸を開きました。また、これ以降、篤胤は膨大な量の著作を次々に発表していきました。さらに1806年(文化3年)から、真菅乃屋(後に「気吹舎(いぶきのや)」に改称)は私塾として門人を取るようになりました。門人は、初め3人だったものの、最後には553人に達したそうです。さらに「篤胤没後の門人」と称した人が1,330人にのぼったそうです。
平田篤胤が亡くなってから36年経った1878年(明治11年)、門人たちが東京柳島横川町(墨田区)にあった平田家邸内に平田篤胤を祭神として祀ったのが「平田神社」のはじまりだそうです。その後、東京小石川第六天町(文京区)に遷座されましたが、太平洋戦争中の空襲によって社殿が焼失してしまいました。
1959年(昭和34年)11月に代々木の現在地に遷座されました。平田篤胤は国学を宗教化して「平田神道」とも呼ばれる神学体系を作り上げた人物です。1987年(昭和62年)、昭和天皇の手術の執刀医を務めた森岡恭彦教授が、執刀前に参拝した神社としても知られています。このため、現在でも医療関係の人たちが手術成功祈願にやってくるそうです。また、平田篤胤が学者であったことから、多くの人が合格祈願にも訪れるそうです。

・平田神社
住所:東京都渋谷区代々木3-8-10
電話:03-3370-7460
営業時間:9時〜15時
定休日:無
料金:無
駐車場:無
アクセス:JR、代々木駅、西口から徒歩約7分
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