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更新日:
2025年8月5日
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◎寛永寺(2022年5月22日)
「寛永寺(かんえいじ)」は、東京都台東区上野桜木一丁目にある天台宗関東総本山の寺院です。山号は「東叡山(とうえいざん)」で「東の比叡山」の意味です。
開基(創立者)は江戸幕府3代将軍の徳川家光で、開山(初代住職)は天海、本尊は薬師如来です。徳川家康、秀忠、家光の3代の将軍が帰依していた天台宗の僧、南光坊天海は江戸城の鬼門の方角を憂慮し、そのことを知った秀忠は1622年(元和8年)、現在の上野公園の地を天海に与えたそうです。当時、この地には伊勢津藩主、藤堂高虎、弘前藩主、津軽信枚、越後村上藩主、堀直寄の3大名の下屋敷があったそうですが、それらを収公して寺地にあてたそうです。
秀忠の隠居後、1625年(寛永2年)、3代将軍徳川家光の時に現在の東京国立博物館の敷地に本坊(貫主の住坊)が建立されました。この年が寛永寺の創立年とされています。また、創建当時の年号をとって「寛永寺」と称することを許され、京の都の鬼門(北東)を守る比叡山にならい、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」としました。
寛永寺の伽藍は延暦寺の様式に準じて造営されました。1627年(寛永4年)には法華堂、常行堂、多宝塔、輪蔵、東照宮などが、1631年(寛永8年)には清水観音堂、五重塔が建設されました。その後、5代将軍徳川綱吉の時代、1697年(元禄10年)7月1日に柳沢吉保を惣奉行として根本中堂の建設が開始され、翌1698年(元禄11年)8月11日に上棟式が行われ、落成しました。
四代将軍、コ川家綱の霊廟が造営され、さらに5代綱吉の霊廟も造営されると、増上寺とともに徳川家の菩提寺となりました。元々、徳川家の菩提寺であった増上寺とのいさかいはあったようですが、6代将軍家宣の廟が増上寺に造営されて以降、歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺に交替で造営することが慣例となり、幕末まで続きました。
また第三代の寛永寺の山主には、後水尾天皇の第三皇子守澄(しゅちょう)法親王を戴き、それ以来、歴代山主を皇室から迎えることになりました。そして朝廷より山主に対して輪王寺宮(りんのうじのみや)の称号が下賜され、輪王寺宮は東叡山寛永寺のみならず、比叡山延暦寺、日光山万願寺(現 輪王寺)の山主を兼任、三山管領宮(さんざんかんりょうのみや)といわれ東叡山に在住し、文字通り仏教界に君臨して江戸市民の誇りとなりました。
このような経緯によって寛永寺は、江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院となりました。江戸時代後期、最盛期には寛永寺の寺域は30万5千余坪、寺領11,790石を有し、子院は36か院に及んだそうです(現存するのは19か院)。現在の上野公園のほぼ全域が寺の旧境内であり、最盛期には、さらにその2倍の面積の寺地を有していたそうです。現在の東京国立博物館の敷地は寛永寺の本坊跡で、博物館南側の大噴水広場にあたる竹の台には間口45m、奥行42m、高さ32mという壮大な根本中堂が建立されていたそうです。また、江戸時代には飛鳥山と並ぶ桜の名所として知られており、庶民の行楽地だったそうです。
しかし、幕末の慶応4年(1868年)、彰義隊が境内地にたてこもって戦場と化し(上野戦争)、官軍の放った火によって、根本中堂をはじめ主要な堂宇を焼失してしまいました。残された建物は五重塔、清水堂、大仏殿などだけでした。さらに明治維新後、明治政府によって寺領は没収され、輪王寺宮は還俗、1873年(明治6年)には旧境内地が公園用地に指定されるなどして、廃寺状態に追い込まれてしまったそうです。
江戸時代の境内地だった場所は明治政府によって上野公園や上野駅の用地とされ、江戸時代までとは大きく異なる景色になったようです。1879年(明治12年)になって、ようやく寛永寺の復興が認められ、現在地(旧子院大慈院跡)に川越喜多院(天海が住していた寺)より本地堂を移築し、山内本地堂の用材も加えて、根本中堂として再建されました。また1885年(明治18年)には、輪王寺門跡の門室号が下賜され、天台宗の高僧を輪王寺門跡門主として寛永寺に迎え、再出発したそうです。伝教大師作の本尊薬師如来や東山天皇御宸筆「瑠璃殿(るりでん)」の勅額は、戦争中に外に運び出されていたため、現在では根本中堂に安置されています。
太平洋戦争中の東京大空襲では、当時まで残っていた徳川家霊廟の建物の大部分が焼失してしまいました。現在の境内地は約3万坪、天台宗別格大本山の格式を有し、根本中堂のある本寺をはじめ、開山堂、辯天堂、パゴダ、徳川霊廟、輪王殿、幼稚園及び子院19坊などが上野の杜に広がっています。
なお、戊辰戦争で焼失を免れた清水観音堂、輪王寺門跡御本坊表門、徳川将軍霊廟勅額門などが重要文化財に指定されており、往時の雰囲気をしのぶことができます。幕末に15代将軍、徳川慶喜が謹慎蟄居した「葵の間」や歴代将軍宝塔は当時のままに保存され、歴史の重みを今に伝えています。







・旧本坊表門、根本中堂 鬼瓦


・五重塔

・旧本坊裏門 黒門

・清水観音堂黒門








・寛永寺
住所:東京都台東区上野桜木1-14-11
電話:03-3821-4440
営業時間:9時〜17時
定休日:無
料金:無
駐車場:
アクセス:JR、上野駅から徒歩約15分
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