メニュー
TOPページ
観光地
地域情報
日本のホテル
日本のニュース
日本について
美味しいもの
海外事情
海外のホテル
食品の話
雑学
用語辞典
リンク
更新日:
2014年5月3日
|
◎近藤勇と新選組隊士の墓(2014年4月26日)
近藤勇と新選組隊士の墓は、JR、埼京線、板橋駅の東口を出てすぐ目の前にあります。近藤勇の墓と言っても、近藤勇の亡骸が埋葬されているわけではありません。この墓は1876年(明治9年)、新撰組の同士だった永倉新八が建立しました。
1868年(慶応4年・明治元年)1月3日の鳥羽・伏見の戦いで敗れた新選組は、幕府軍艦・富士山丸で江戸に戻り、2月28日、近藤勇は幕府から「甲陽鎮撫」を命じられ、近藤勇も大久保剛と偽名を使い、新撰組を甲陽鎮撫隊と改名しました。
しかし甲府に向かう途中、3月6日、甲州勝沼の戦い(柏尾戦争)で板垣退助の率いる迅衝隊に敗北し、江戸に戻り、さらに下総国流山(千葉県流山市)に駐屯しました。ところが大久保剛が近藤勇その人だとわかる者が新政府軍側にもいて、4月3日に甲陽鎮撫隊隊長・近藤勇は新政府軍、東山道軍斥候隊の薩摩人、有馬藤太によって捕縛されてしまいました。近藤の小姓であった隊士、野村利三郎と相馬主計に付き添われ、当時、新政府軍の置かれた中山道、板橋中宿脇本陣の豊田一右衛門宅に護送されました。
ここで、元新選組隊士で御陵衛士を経て薩州軍に属していた加納道之助が近藤であることを確認したとされているそうです。有馬らは近藤の一軍の将としての人物を惜しみ、延命を主張したが、当時、同志坂本龍馬を暗殺した下手人は新選組であると決めてかかっていた土佐の谷守部や軍監の香川敬三らの強硬な姿勢に押され、斬首の刑を執行することとなったそうです。
この間、流山を密かに脱した土方歳三は一旦、江戸に戻り、勝海舟に近藤の延命工作を働きかけましたが、4月25日の刑執行を逃れることはできませんでした。そんな周囲の状況とは関係なく、近藤自身は心静かに刑を待ち、辞世の七言絶句を残しています。
孤軍援絶作囚俘
顧念君恩涙更流
一片丹衷能殉節
雎陽千古是吾儔
靡他今日復何言
取義捨生吾所尊
快受電光三尺剣
只将一死報君恩
孤立した軍隊となり援軍が絶えて、囚われの身となった。
君主の恩を思い起こせば、涙が一層流れる。
満身の忠誠心は、節義のために命を捨てることができる。
雎陽で奮戦した張陽こと張巡こそが、わたしの同志である。
敵方に靡いて、今更また、何をか言うだろうか。
大義に立って、生命を捨てることは、わたしの尊ぶところである。
わたしの首を斬る長剣を快く受け容れよう。
ただ一身の死をもって、君主の恩に報いよう。
4月24日、近藤は滝野川三軒家の石山亀吉邸で今生最後の夜を過ごし、翌25日、中山道、平尾一里塚の馬捨て場で斬首されました。斬首の太刀取りは、美濃岡田藩の武術指南役の横倉喜三次という人物でした。「馬捨て場」とは、当時、宿場町で駅馬車用の馬が死ぬと埋葬していた場所で、馬捨て場と呼ばれていたようです。現在の旧中山道、JR埼京線踏切から東側に約60m入ったあたりだそうです。
近藤の首は板橋で3日間、晒し首にされた後、京に運ばれ、三条河原で梟首(きょうしゅ:さらし首)にされました。その後、首級は行方不明になり、今も見つかっていないそうです。
一方の胴体は、馬捨て場から南に少し離れたところに無縁仏をまつる塚があり、そこに埋葬されたと言われているようです。また、後に近藤の親族が掘り起こし、東京都三鷹市の龍源寺に再度、埋葬したとも言われているそうです。ちなみに、龍源寺は近藤の生家宮川家の菩提寺です。
近藤勇と新選組隊士の墓ですが、上述した通り、1876年(明治9年)、新撰組の同士だった永倉新八が発起人となり、旧幕府典医、松本順の協力を得て建てられました。新選組の祭祀を目的とする最初期の供養塔として学術的にも貴重なものとなっています。
永倉新八は松前藩を脱藩後、新選組に入隊し、二番隊組長、撃剣師範を務めました。甲州勝沼の戦い(柏尾戦争)の敗北後、近藤勇とたもとを分かち、会津藩の降伏後、松前藩士(150石)となっています。1873年(明治6年)、杉村治備と改名し、北海道、小樽へ移り、さらに1882年(明治15年)から警察官僚・月形潔の招きで樺戸集治監(刑務所)の剣術師範を務めています。
永倉新八は近藤や土方と意見が合わず2人の元を離れましたが、2人の死を悼み、この地に墓を建立したようです。大きな四角柱の墓石には、近藤勇と共に土方歳三の名前が刻まれており、側面には110名の新選組に関わった人々の名が刻まれています。
また、自分が死んだら近藤と土方の墓のそばに自身の墓を作るようにと家族に指示していたそうです。1929年(昭和4年)4月に大規模な改修工事が施され、供養碑の造立者である永倉新八の墓碑が敷地内に建てられました。この時、永倉の遺言によって遺骨の一部と遺髪などが埋葬されたそうです。
板橋駅前の墓所は「近藤勇と新選組隊士供養塔」として2003年12月10日に北区指定有形文化財になりました。
また菩提寺である寿徳寺と「近藤勇と新選組隊士の墓保存会」は、近藤勇の命日にあたる4月25日またはその直前の日曜日に「墓前供養祭」を行なっています。またゴールデンウィークには「滝野川新選組まつり」も開催しており、地元の新選組滝野川隊のパレードなどが行なわれています。






・近藤勇と新選組隊士の墓(こんどういさみとしんせんぐみたいしのはか)
住所:東京都北区滝野川7丁目8−10 寿徳寺境外墓地
アクセス:JR、埼京線、板橋駅、東口から徒歩1分
|