旧新橋停車場

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更新日:
 2025年10月25日



◎旧新橋停車場(2025年10月22日)
 「旧新橋停車場」は、鉄道開業当時の新橋停車場の外観を、当時と同じ場所に再現した建物です。日本で初めて鉄道が開業したのは、明治維新から間もない1872年10月14日(明治5年9月12日)のことです。区間は新橋〜横浜間で、東京側の始発駅が「新橋停車場」でした。新橋〜横浜間の所要時間は53分で、運賃は上・中・下等に分かれ、下等でも37銭5厘(現在換算で5,000円程度)と、庶民にとってはかなり高額だったそうです。開業当初の乗車運賃がかなり割高に設定されたのは、運転がまだ試行的だったため、あまり多くの人に乗車されたくない、という意図があったという説があるそうです。
 明治天皇や大隈重信といった要人のほか、文豪らも新橋停車場を利用したという記録が残されています。夏目漱石は友人の見送りや出迎えのために停車場を訪れ、永井荷風は停車場の待合所について「無類上等のcafeである」と随筆に書いているそうです。
 しかし、1914年(大正3年)12月20日に東京駅が開業すると、旅客機能は烏森駅(現在の新橋駅)に移り、新橋停車場は貨物専用の「汐留駅」に改称されてしまいました。そして野菜、鮮魚、資材から個人の荷物など、あらゆる物を運ぶための鉄道駅となりました。
 その後、1923年(大正12年)の関東大震災で駅舎が焼失したそうです。さらに1934年(昭和9年)には、残っていた各施設やプラットフォームも解体されたそうです。その後、最初の線路の起点だった場所に「0哩(マイル)標識」が設けられ、1965年(昭和40年)には「旧新橋横浜間鉄道創設起点跡」として、国の史跡に指定されました。
 しかし、鉄道貨物は昭和40年代にピークを迎え、その後は自動車による物流の発達に押されて停滞していきました。そして1986年(昭和61年)、汐留貨物駅は廃止となり、その役割に幕を閉じました。
 開業当時の駅舎は関東大震災による焼失や改築によって正確な位置が不明だったそうです。しかし、1991年(平成3年)から始まった汐留地区の再開発事業に先立って行われた埋蔵文化財の発掘調査によって、鉄道開業当時の駅舎やプラットフォームなどの構内施設の礎石や外国人職工官舎、転車台など、多数の遺構が発掘されました。そして新たに発見された遺構に基づき、駅舎全体と乗降場の一部及両側線路敷を含む範囲を追加指定するとともに、新たに駅の範囲外であることが明らかとなった地点については、史跡指定が解除されました。さらに、史跡の名称が「旧新橋停車場跡」に変更されました。
 その後、2000年(平成12年)に、再開発事業によって史跡整備された駅舎全体と乗降場の一部及び両側線路敷を含む形での追加指定及び一部解除を行い、乗降場東側のレール起点周辺のごく一部であった史跡指定範囲が拡大され、現在に至っています。
 そして、開業当時と同じ場所に開業当初の駅舎の外観やプラットフォームの石積の一部が再現され、2003年(平成15年)から「旧新橋停車場」として公開されています。アメリカ人のリチャード・ブリジェンス(Richard Perkins Bridgens)の設計による木造石張り2階建ての西洋建築の駅舎の外観を再現することに重点を置きながらも、現在の建築基準法に則って造られています。駅舎の外観に使用された材料は、当時の文献や錦絵などを参考にしながら、現在入手可能で、かつ建材に用いられているものから選定したそうです。内部は防災対策やバリアフリーなど、建物の性能を重視して現代的なデザインが施されています。
 史跡は駅舎の真下に良好な状態で保存されており、来訪者は各所に設けられた見学窓から、駅舎基礎石積み、プラットフォーム石積みなどを見学できるようになっています。また、外には駅舎に続く石積みのプラットフォームが再現され、レールも敷設されています。レールの起点には鉄道発祥の証である「0哩(ゼロマイル)標識」と車止めも復元されています。
外観」を再現する――数々の労苦を乗り越えて、今、ここに復活した駅舎の姿を眺めることは、一種、胸に迫る感動さえともなう。この場所の地下には、旧駅舎そのものの基礎石積が静かに眠っている。そして、その上の空間に、今や手触りを確かめられる実体としての建築がある。







・旧新橋停車場
 住所:東京都港区東新橋1-5-3
 電話:
 営業時間:
 定休日:無
 料金:無
 駐車場:
 アクセス:JR、新橋駅から徒歩約5分