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更新日:
2025年8月5日
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◎日本橋魚河岸跡、乙姫広場(2022年5月22日)
日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、かつて「魚河岸」がありました。天正年間、徳川家康が関東に入国すると共に摂津国西成郡佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の名主、森孫右衛門や大和田村の漁夫34人を江戸に呼び寄せたそうです。彼等に日本橋本小田原町の河岸地を与え、江戸湾内で自由に漁業を営む特権を与えるとともに、獲った魚を城内に納めることが義務付けられたそうです。
徳川家康が入城する以前から漁業を営んでいた芝、金杉、品川、大井、羽田、生麦、新宿(現、横浜市子安)、神奈川の8つの漁村も魚介類を献上したことから御菜浦(おさいうら)と呼ばれ、税の免除など、別格の扱いを受けたそうです。
そして、慶長年間の1610年頃、森孫右衛門の長男、九左衛門が、幕府に納めた鮮魚の残りを一般に販売する許可を得て、舟板の上に並べて販売するようになったことが日本橋魚河岸の始まりとされています。
当初は、漁師が水揚げした魚を並べて売るという簡素なものだったそうですが、その後、摂津から多くの漁業者が江戸に移り、幕府の許可を得て、埋め立てた佃島に移住するようになると、漁師は獲れた魚を日本橋の魚問屋に出荷し、魚問屋が売る、という漁獲と販売の分業が始まったそうです。
1623年(元和9年)、徳川家光が3代将軍に就任する頃になると、参勤交代など幕府の行事が多くなり、それに伴い、納入する魚の量も増えていったそうです。幕府には、毎日登城して政務を執る役人、約2000人に昼食を出す習わしがあり、かつ階級によって昼食の内容が異なるため、多種類の魚介を必要としたそうです。中でも祝儀に欠かせない魚として鯛と鯉があり、鯛を江戸近郊で集めるのが難しくなったそうです。
すると大和屋助五郎という人が駿河と伊豆の18の浦の漁師たちと契約して巨大な竹製の生け簀を作り、1浦あたり約2000尾の鯛を提供できる体制を作ったそうです。そして船の中央に生け簀を備えた「活船(いけぶね)」を作り、生きた鯛を江戸まで運ぶことに成功しました。その後、助五郎が契約する漁村は三河湾や瀬戸内海まで広がったそうです。そして助五郎は漁具の購入費、補修費などを網元に貸し付ける代わりにその浦の全漁獲物を引取るという仕入ルートのネットワークを作り、魚問屋体制を確立したそうです。これにより江戸周辺で取れた魚が集まるだけだった日本橋の魚河岸は、鮮魚や干物などの加工品まで集まる魚市場に発展したそうです。
町人が経済的に力をつけてきた元禄時代(1688年〜1704年)になると、魚河岸は「朝千両の賑わい」と言われ、江戸を代表する繁華街に発展したそうです。この魚市は日本橋川沿いの魚河岸を中心として本船町、小田原町、安針町(現在の室町1丁目、本町1丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変な賑わいだったそうです。
明治になると鮮魚の献上先が宮内省に変わったものの、これ以外の変化はなかったそうです。鉄道が発達し、産地から貨車便で魚が送られてくるようになったそうですが、日本橋の近くに駅が無かったため隅田川駅、両国橋駅、汐留駅などで荷を下ろし、馬車やトラックに積み替えて市場に運んでいたそうです。ぬかるんだ地面に藁を敷いて、戸板の上に魚を並べて販売しており、日本橋川から腐敗臭がするなど美観、衛生面で問題になることが多く、度々、コレラも発生したそうです。
1888年(明治21年)に、近代的な首都建設のための都市改造計画「東京市区改正条例」が公布され、日本橋魚河岸は10年以内に箱崎、芝、深川に移転することが決まったそうです。しかし、用地買収費用や施設の建設費など、移転に伴う費用は全て業者自身の負担だったことに加え、魚河岸の新旧勢力の対立などもあり、移転は全く進展しなかったそうです。
1923年(大正12年)3月、地方公共団体を市場開設者とし、問屋と仲買の仕事を分け、価格はセリで決めるという「中央卸売市場法」が制定されました。この法律を受けて東京市が市場開設にとりかかろうとしていた矢先、9月1日に大地震が首都を襲いました。これにより190万人が被災、10万人が死亡、町は壊滅的な状態となり、日本橋の魚河岸も焼け野原となったそうです。このことがきっかけとなり、市場移転計画が動き出したそうです。
9月17日から日本橋魚市場組合が芝浦で仮営業を開始したものの、震災の3ヶ月後、12月からは海軍省が所有していた築地に臨時魚市場が開場され、翌1924年(大正13年)から帝都復興事業として築地市場の本格的な整備が始まりました。そして用地の拡張などを経て、1935年(昭和10年)に京橋区築地に東京市中央卸売市場が開設されました。
1654年(昭和29年)に、日本橋北詰東の地に日本橋魚市場関係者が「日本橋魚市場発祥の地」と刻まれた記念碑と乙姫像が置かれました。乙姫をイメージした像は、龍宮城の住人である海の魚がことごとく日本橋に集まったという意味を込めて作られたそうです。



・日本橋魚河岸跡、乙姫広場
住所:東京都中央区日本橋室町1-8
アクセス:東京メトロ、三越前駅から徒歩約3分
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