将門塚(しょうもんづか、まさかどづか)

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更新日:
 2022年5月25日



◎将門塚(しょうもんづか、まさかどづか)(2022年5月22日)
 「将門塚(しょうもんづか、まさかどづか)」は東京都千代田区大手町にある平安時代中期の豪族、平将門(たいら の まさかど)の首を祀る塚です。別名「首塚」とも呼ばれています。千代田区大手町という大都会、皇居のすぐ目の前、内堀のすぐ外です。
 平将門は生まれ年にはいくつかの説があるようですが、平良将(たいら の よしまさ)の三男として生まれたようです。一説には、903年(延喜3年)生まれのようです。平良将は当時、下総国、豊田郡(現在の茨城県、常総市、下妻市の一部で鬼怒川の東側地域)を拠点にしていたようです。将門は15〜16歳の頃、平安京に出て、藤原北家の氏長者であった藤原忠平を主君として主従関係を結んだそうです。将門は鎮守府将軍である父を持ち、自らも桓武天皇の五世であったが、藤原氏の政権下では滝口の衛士(内裏の警護をする武士)でしかなく、官位は低かったそうです。
 将門は12年ほどの在京中、当時、軍事警察を管掌する検非違使の佐(すけ)や尉(じょう)を望んだものの、受け入れられませんでした。この後、将門は東下しましたが、東下の際、伯父の平国香(平貞盛の父)らが上野国花園村(現、群馬県高崎市)の染谷川で将門を襲撃したそうです。しかし、叔父で国香の弟にあたる平良文が将門を援護し、これを打ち破ったそうです。
 どうやら将門が京にいる間に父親の平良将(生没年不詳)は亡くなっており、平良将の所領(下総国佐倉)は、3人の叔父、平良正(下野介:しもつけのすけ)、平良兼(上総介:かずさのすけ)、平国香(陸奥大掾:みちのくのだいじょう)が横領していたようです。このため、この横領の発覚を恐れたのか、あるいは将門を討てば憂いがなくなる、という単純な理由なのか、いずれにしても甥である将門を襲ったようです。
 935年(承平5年)2月2日、将門は源護(みなもと の まもる)の子の源扶(みなもと の たすく)らに常陸国真壁郡野本(玄、筑西市)で襲撃されたものの、これらを撃退し、源扶らは討ち死にしたそうです。将門は、その勢いで大串、取手(現、下妻)から源護の本拠である真壁郡へ進軍し、源護の本拠を焼き討ちし、伯父の平国香を焼死させたそうです。
 同935年(承平5年)10月21日、源護と姻戚関係にあった平良正が軍勢を集め、鬼怒川沿いの新治郷川曲(現、八千代町)に陣を構えて将門と対峙したものの、将門に撃破され、平良正は平良兼に救いを求めたそうです。
 それまで、この事態を静観していた平良兼も平国香亡き後の一族の長として放置できず、平国香の子の平貞盛を誘って軍勢を集めたそうです。そして翌936年(承平6年)6月26日に上総国を発ち、将門を攻めたものの、将門の奇襲を受けて敗走し、下野国の国衙(こくが)に保護を求めたそうです。将門は下野国の国府を包囲したものの、一部の包囲を解いてあえて平良兼を逃亡させ、その後、国衙と交渉して自らの正当性を認めさせてから帰国したそうです。
 そして、この年(936年)に源護が出した告状によって朝廷が将門と平真樹に召喚命令を出したそうです。このため将門らは平安京に赴き、検非違使庁で裁かれたそうです。しかし翌937年(承平7年)4月7日の朱雀天皇元服の恩赦によって、全ての罪を赦されたそうです。
 将門は帰国したものの、同937年(承平7年)8月6日に平良兼は将門の父の良将や高望王など父祖の肖像を掲げて将門の常羽御厩(いくはのみうまや、下総国豊田郡)を攻めた結果、将門は敗走したそうです。同937年(承平7年)9月6日、将門は弓袋山(きゅうたいさん、現、茨城県石岡市)に平良兼を攻めたものの、勝敗は決しなかったそうです。12月14日には平良兼が、将門の駈使(雑用係)、丈部子春丸(はせつかべのこはるまる)を買収して「石井の営所(いわいのえいしょ、現、坂東市)」の内情を探らせ、夜討をかけたそうですが、将門は奮戦してこれを退けたそうです。
 翌938年(天慶元年)2月29日に平貞盛が山道を通って上洛を企てたところ、将門は信濃国小県群(ちいさがたぐん)の国分寺付近で追撃したものの、平貞盛は辛うじて逃れ、上京して将門の非行を訴えたそうですが、具体的に朝廷から将門には何もなかったようです。その後、武蔵国庁の紛争を調停するなど、将門は関東で力をつけていったようです。
 939年(天慶2年)11月21日、藤原玄明(ふじわらのはるあき)が、税金の不払い問題等で常陸国司と対立し、将門に助けを求めたそうです。常陸国司は将門に藤原玄明の引渡しを要求しましたが、将門は応じず、それが高じて合戦になったそうです。将門は1,000の兵で、常陸国府軍3,000の兵に大勝し、常陸国府を焼き払い、印鎰(いんやく)を奪ったそうです。印鎰は朝廷が国司に権限を与えたことの証拠ですので、これを勝手に奪ったということは、将門が朝廷から常陸国を奪い取ったということになります。これによって将門は朝敵となりました。
 この時、将門の側近となっていた興世王(おきよおう)が「一國を討ち取ったとしても、その罪は大きい。それならば同じ坂東を押領して、その様子を見ればよろしい」と進言したそうです。將門は「俺が思うところもそれだけである。東八か國から始めて王城をとろうと思う。いやしくも將門は柏原天皇の五世の末孫である。まず諸國の印鎰(國印・國倉の鍵)を奪い取って、受領を京に追い払おう」と答えて、多くの軍を率い、下野國に渡っていったそうです。
 そして同939年(天慶2年)12月11日に将門は下野国府を襲って印鎰を奪い、國司、藤原弘雅(ひろまさ)、前國司、大中臣宗行らを追放したそうです。さらに12月15日に将門は上野国府を攻略し、介の藤原尚範(たかのり)の印鎰を奪い、使いを付けて京に追いやったそうです。
 その後、將門は府を押さえて庁に入り、陣を固めて諸國の國司任命を行ないました。この時、1人の者が「八幡大菩薩の御使いである」と口走り、「朕の位を蔭子(五位以上の者の子)平將門に授ける。速やかに音楽をもってこれを迎えよ」と言ったそうです。將門はこれを聞いて再拝し、多くの兵士たちは喜んだそうです。ここで將門は自ら「新皇(しんのう)」と名乗ったそうです。
 12月29日には将門謀叛の報が朝廷に届き、対策が検討されたそうです。翌940年(天慶3年)1月19日に参議、藤原忠文が征東大将軍に任じられ、藤原忠文は屋敷に帰ることなく討伐軍長官として出立したそうです。
 その頃、将門は兵5000を率いて常陸国に出陣し、平貞盛と平維幾の子、平為憲の行方を捜索したそうですが、10日かけても平貞盛らの行方は分からなかったそうです。そこで軍を解き、諸國の兵達を帰し、残ったのは1000人足らずになったそうです。
 この状況を聞いた平貞盛と下野押領使、藤原秀郷らは4000余の兵を率いて将門を攻めようとしたそうです。一方、この情報を聞いた将門は、手許には1000人足らずしか兵が残っていなかったものの、時を移しては不利になると考え、2月1日に下野に出兵しました。
 将門の副将、藤原玄茂の武将、多治経明と坂上遂高らは平貞盛・藤原秀郷軍を発見すると、将門に報告しないまま攻撃を開始したそうです。しかし、軍略に長じた藤原秀郷軍によって藤原玄茂軍は瞬く間に敗走したそうです。平貞盛・藤原秀郷軍はこれを追撃し、下総国川口にて将門軍と合戦となりました。将門自ら陣頭に立って奮戦したため、一時期は均衡を保ったそうですが、時が経つにつれ数に勝る平貞盛・藤原秀郷軍に押され、敗退し、幸島(猿嶋、さしま)郡の弘江(ひろえ、現在の常総市、旧、結城郡石下(いしげ)町)に隠れたそうです。
 2月13日に平貞盛・藤原秀郷らは、兵を倍にして下総の逆井(さかさい、猿島都猿島町)に進撃しました。兵数が少ない将門は、沼が入り組んで地の利が良い飯沼のほとりに隠れていたため、に平貞盛・藤原秀郷らは将門軍を見つけられなかったそうです。そこで、将門を誘き出すため、将門の邸宅や石井(いわい)一帯の民家を焼き払ったそうです。
 翌2月14日の明け方、平将門は隠れ家を出て石井(いわい)の北、幸島郡(さしまごおり)の北山に陣をはったそうです。また、この日は朝から強烈な北風が吹いていたそうです。この地方で、この季節によくある暴風だそうです。平貞盛・藤原秀郷軍は南から押し寄せてきましたが、将門軍が、この風に乗せて矢を放つと、面白いように敵軍に刺さり、勢いを押しとどめたそうです。そこで「天運はまだ将門にあるぞ!坂東武者の底力を見せてやれ!」と将門自ら切り込んで行くと、勢いをえた将門軍は、80人以上を討ちとったそうです。その勢いに押された2900人ほどの軍勢が逃げに転じたそうです。しかし平貞盛・藤原秀郷らの軍300人ほどが待ち構えていたそうです。
 興世王が将門に「新皇。ひとまず引き上げましょうぞ。」と声をかけると、将門は「よし、兵を集めろ!」と命令し、馬の向きを変えようとしたそうです。その時、急に風向きが北風から南風に変わったそうです。この時、風の変わり目を狙って弓を構えていた藤原秀郷が矢を放つと、将門のこめかみに刺さったそうです。
 将門を失った軍は敗走、壊滅しました。その後、将門の兄、平将頼や将門軍の藤原玄茂(ふじわら の はるもち)らは、相模国で討たれました。さらに興世王は2月19日、上総国で平公雅に討たれました。また、坂上遂高(かつたか)、藤原玄明(ふじわら の はるあき)らは常陸国で討たれました。
 塩漬けにされた将門の首は4月25日、藤原秀郷によって京都に届けられ、東市にさらされたそうです。その後、将門の首は、所縁の者たちによって武蔵国に移され、豊島郡芝崎村(現、大手町)に葬られたそうです。(伝説では、首が体を求めて飛んできたそうです。)
 将門の首塚は東国平の崇敬を受けていたそうですが、時代が経つにつれて少しずつ荒れていき、14世紀初め頃には塚は荒れ果てていたそうです。この頃、天変地異が多発し、将門の祟りと噂されたそうです。1307年(徳治2年)、時宗の他阿真教上人(一遍の弟子)が東国遊行中に通りかかり、疫病の蔓延と将門塚の荒廃を見て、塚を修復し、供養したそうです。その際、将門に「蓮阿弥陀仏」の法号を贈り、石塔婆を建立したそうです。
 将門塚の修復から2年後の1309年(延慶2年)、真教上人は神田明神に将門をお祀りし、相殿神としたそうです。
 徳川家康の江戸幕府は江戸湾北西奥の日比谷入江を埋め立て、武家屋敷の用地としました。これによって将門塚の周辺の様子は一変したそうです。江戸城本丸と西の丸の東側(玄、大手町、丸の内)は大名小路となり、親藩、譜代大名や老中、若年寄などの屋敷が集中することになりました。将門塚の地は、江戸時代初期には老中、土井利勝の邸内となりました。
 明治維新後、1871年(明治4年)8月には、将門塚があった旧姫路藩、酒井雅楽守上屋敷は大蔵省の庁舎とされ、旧建物がそのまま利用されました。その後、1877年(明治10年)に木造2階建ての擬洋風建築に建て替えられたそうですが、将門塚を含む庭園は、そのままだったそうです。
 1906年(明治39年)、大蔵大臣、阪谷芳郎によって「故磧保存碑」が建てられ、失われていた真教上人の石塔婆が復されたそうです。当時、将門塚を含む大蔵省の庭園は、現在の数倍も広く、島が浮かぶ池があったそうです。池の中には千鳥石と名付けられた岩があり、その下には「将門首洗井戸」と呼ばれる古井戸があったそうです。また、将門塚の傍らに高さ約6mの丘(芝崎古墳)があったそうです。
 1923年(大正12年)の関東大震災で木造の大蔵省庁舎は焼失したそうです。翌1924年(大正13年)、跡地に仮庁舎を建てるため、古墳が崩されたそうです。その後、1926年(大正15年)、第一次若槻礼次郎内閣で大蔵大臣となった速水整爾が突然、亡くなり、管財局技師で工事部長だった矢橋賢吉も亡くなるなど、関係者14名が亡くなる不幸が続いたため仮庁舎建設に関する祟りが噂されるようになり、1927年(昭和2年)に鎮魂碑が建てられたそうです。
 その後、将門塚の周りには大蔵省、専売局等の仮庁舎が建てられていたそうですが、1945年(昭和20年)の東京大空襲で一帯は焼け野原になったそうです。戦後、米軍(連合軍)が東京に進駐し、将門塚周辺は米軍の駐車場として使われたそうです。
 そして将門塚の近くで米軍が施設を建設中にブルドーザーが転倒し、運転手が投げ出され、病院に運ばれたものの死亡したそうです。他にも事故が相次ぎ、日本人労働者にも怪我人が出たそうです。そこで町会長の遠藤課長正蔵がGHQに将門塚を説明し、保存を訴えたところ、許可されたそうです。
 昭和30年代に接収が解除されると、将門塚周辺の駐車場跡地は西潟が国税良く、運輸省航空局等になり、東側は三井生命、日本長期信用銀行に払い下げられました。周辺状況が急激に変化する中、将門塚の維持、管理のため1960年(昭和35年)に「史跡将門塚保存会」が神田明神および地元企業有志らによって結成されました。
 保存会は1961年(昭和36年)の第一次整備工事を皮切りに数度にわたる整備工事が行ってきました。第6次整備工事が終了し、2021年(令和3年)4月26日に式典が行われました。









・将門塚(しょうもんづか、まさかどづか)
 住所:東京都千代田区大手町1-2-1
 定休日:無
 料金:無
 アクセス:地下鉄、大手町駅、C5出口から徒歩約1分