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更新日:
2021年6月6日
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◎東京駅(2020年1月11日)
東京駅は東日本旅客鉄道(JR東日本)、東海旅客鉄道(JR東海)、東京地下鉄(東京メトロ)の駅です。ここではJRの東京駅について述べます。
日本の鉄道の歴史は、1872年(明治5年)5月7日(太陽暦:6月12日)に品川〜横浜間の仮開業から始まります。その後、1872年(明治5年)6月13日(太陽暦:7月18日)に鉄道による郵便物の輸送を開始しました。さらに1872年(明治5年)9月12日(太陽暦:10月14日)、新橋〜横浜間(29km)の鉄道が開業しました。この時、東京駅は存在しません。(明治5年12月3日に太陽暦を採用し、この日を明治6年1月1日としました。)
東京駅は、東京市内で各方面に分かれていた路線が使いづらかったため、各路線のターミナル駅を結んで中心に中央停車場を設置する構想が元となり、建設が始まりました。1895年(明治28年)当時の鉄道は、@新橋〜横浜間は官設鉄道の路線として1872年に開通、A上野〜熊谷間は私設鉄道の日本鉄道の路線として1883年に開通、B品川〜赤羽間に官設鉄道と日本鉄道を結ぶ品川線が開通(1885年)、C本所(現在の錦糸町)〜佐倉間に私設の総武鉄道が1894年(明治27年)12月9日に開通、D飯田町(現在の飯田橋駅と水道橋駅の間くらいの場所)〜八王子間に私設の甲武鉄道が1895年(明治28年)4月3日に開通、と5路線が都内中心部に向けて走っていましたが、それぞれが別々の路線となっており、不便でした。
この頃、1894年(明治27年)8月1日に日清両国で宣戦布告がなされ、日清戦争が勃発しています。そのような状況下、1906年(明治39年)3月31日に鉄道国有法が公布され、上記の私設鉄道は、全て国有化されていきます。
そこで中央停車場を建設することになり、辰野金吾氏設計を委託され、設計期間は8年に及んだそうです。結果、1908年(明治41年)3月に着工され、1914年(大正3年)12月18日に落成式が行われ、12月20日に開業しました。この時、東京駅と名付けられたそうです。東京駅の正面は江戸時代からの繁華街であった京橋側ではなく、建設当時はまだ野原であった丸の内側です。これは皇居からの移動が考慮されていたと考えられます。駅正面に皇室専用玄関を設け、右(南)側のドームが乗車口、左(北)側のドームが降車口とされていました。乗降口の分離は1948年(昭和23年)まで続けられました。なお、1階は駅施設ですが、2階、3階の北側は中部鉄道管理局、南側は東京ステーションホテルとして使用され、駅前には広大な広場が設けられました。また、当初の建設予算は42万円だったそうですが、実際にかかった費用は270万円だったそうです。
ちなみに外壁に使用された煉瓦は、渋沢栄一が設立した日本煉瓦製造が製造したものです。工場は埼玉県榛沢郡上敷免村(現在の深谷市上敷免)に建設され、1888年(明治21年)に日本初のレンガ工場として操業していました。日本煉瓦製造の煉瓦は東京駅丸の内駅舎だけでなく、法務省旧本館や旧東宮御所(現在の迎賓館赤坂離宮)などにも使用されています。しかし、時代とともに煉瓦の需要が減少し、2006年(平成18年)に廃業となっています。翌2007年(平成19年)、工場施設の「ホフマン輪窯6号窯」、「旧事務所」、「旧変電所」などが深谷市に寄贈されています。
1923年(大正12年)9月1日、午前11時35分、関東地方を襲ったマグニチュード7.9の激震(関東大震災)は、倒壊・焼失戸数13万5千戸、死者11万人を越える大被害をもたらしましたが、東京駅の建物には大きな被害はなく、奇跡的に死傷者もでなかったそうです。しかしながら、地震後に発生した火災は凄まじく、構内に停車中の280両の客貨車にも火の手が及び、駅員たちは炎上する車両を切り離し、手で押しながら避難させたそうです。また、無事だった東京駅を目指して避難する市民があふれ、待合室をはじめ、ホームから貨車にまで人が入りこみ、一時は約8千人もいたそうです。
関東大震災を耐え抜いた東京駅でしたが、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)5月25日、アメリカ軍による東京大空襲によって丸の内駅舎の降車口に焼夷弾が着弾し、大火災が発生しました。これによってレンガ造りの壁やコンクリート製の床など、構造体は残ったものの、鉄骨造の屋根は焼け落ち、内装も大半が失われてしまいました。
1945年(昭和20年)8月、終戦後から修復計画が立案され、年末から1947年(昭和22年)にかけて修復工事が行われました。3つのドーム部分の外壁は修復されたものの、焼失が著しかった3階部分の内外壁は取り除き、2階建てに変更されました。中央ドームは木造小屋組で元の形に復原し、南北両ドームは丸型から台形に変更されました。軒蛇腹、パラペットや壁面、柱型、窓枠などは2階建てになっても忠実に復原されました。南北ドーム内のホール天井はローマのパンテオンを模したデザインに変更されました。仮の修復でしたが、当時の鉄道省や大林組の努力によって、日本の中央駅として恥ずかしくないデザインで修復をしたとのことです。
一方、八重洲側は1929年(昭和4年)12月16日に八重洲橋口(現在の八重洲口)が開設されました。当時、東京駅の東側には線路にほぼ並行して外濠川という川が流れていました。ここに架けられていた橋が「八重洲橋(やえすばし)」で、現在の東京駅東側の八重洲口中央口交差点付近にあったようです。この橋の正面に駅の出入口が作られたことから「八重洲橋口」だったそうです。ちなみに東側には車両基地の線路群があり、これを渡る木造の長い跨線橋を架けて八重洲側に出入口を作ったそうです。
戦後、1948年(昭和23年)に外濠川が埋め立てられ、八重洲橋も撤去されました。埋め立てられた外濠跡を用いて駅の拡張工事が行われ、1948年(昭和23年)11月16日にモダンデザイン建築の新しい駅舎が建設されたそうですが、翌1949年(昭和24年)4月29日に失火により、焼失してしまったそうです。
1954年(昭和29年)10月には新たな八重洲口駅舎(鉄道会館ビル)が完成(地下2階〜地上6階)し、このビルに大丸東京店が開業しました。鉄道会館ビルは1968年(昭和43年)6月に6階建てから12階建てに増築され、南部建物(地下3階〜2階)を増築し、八重洲のランドマークになりました。また、1960年代後半には大規模な八重洲地下街が段階的に建設され、商業施設が大幅に増えていきました。
2000年(平成12年)、丸の内駅舎を創建当初の姿に復原する方針がまとめられました。500億円とされた復原工事の費用は、東京駅の容積率を丸の内地区の高層ビルに移転(売却)することで賄うことになり、復原工事は2007年(平成19年)5月30日に起工され、2012年(平成24年)10月1日に完成しました。これにより、丸の内駅舎は創建当時の姿に復原されました。
一方、八重洲口は2004年(平成16年)9月10日に再開発の着工を行い、2007年(平成19年)11月、鉄道会館ビルの南北に超高層ツインタワービル、グラントウキョウが完成し、大丸も移転しました。その後、鉄道会館ビルは解体され、2013年(平成25年)9月、跡地にペデストリアンデッキ、店舗などからなる「グランルーフ」が完成しました。車両基地があった場所は新幹線のホームとして利用され、駅前広場も整備され、狭かったバス乗り場は大幅に拡張されました。
現在の東京駅の総面積は182,000m2で東京ドーム3.6個分、1日平均の乗車人員は約460,000人、1日の運転本数は約4,000本、ホーム数は28本(東海道新幹線6本含む)という日本一の駅として機能しています。








・東京駅
住所:東京都千代田区丸の内1丁目
営業時間:始発から終電まで
定休日:無
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