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更新日:
2025年8月5日
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◎谷中霊園(やなかれいえん)、谷中墓地(やなかぼち)(2022年5月22日)
「谷中霊園(やなかれいえん)」は東京都台東区谷中にある都立霊園です。1874年(明治7年)に創設され、面積約10ヘクタールの広大な霊園です。JR、日暮里駅から徒歩で5分くらいの場所にあり、桜の名所として知られています。中央園路は通称「さくら通り」と呼ばれ、園路を覆う桜の枝に花が咲くと、まるで桜のトンネルのようになり、素敵な景色を楽しむことができます。
明治維新後、明治政府が神仏分離政策を進めたことで神式による葬儀も増えました。しかし、墓地の多くは寺院の所有であったため埋葬場所の確保が難しく、公共の墓地を整備する必要がありました。そこで1874年(明治7年)9月1日、明治政府は天王寺の寺域の一部を没収し、東京府管轄の公共墓地として谷中墓地を開設しました。
かつては、感応寺(現、天王寺)の寺域の一部で、中央園路は感応寺の参道だったそうです。江戸時代には、この感応寺で富くじが行われ、「江戸の三富」として大いに客を呼んだそうです。この客を目当てに参道入り口に茶屋が立ち並んだことから、現在でも墓地関係者は中央園路にある花屋のことを「お茶屋」と呼ぶそうです。
1889年(明治22年)には、市町村制の施行に伴い東京市に移管され、同年5月に青山、雑司ケ谷、染井、谷中、亀戸、澁谷の6墓地が市区改正設計(都市計画の前身)における公共墓地に指定されました。1935年(昭和10年)7月に八柱霊園が千葉県松戸市に開設されたのを機に、墓地の名称が霊園に改められました。従いまして、現在の正しい名称は「谷中霊園」で、「谷中墓地」という言い方は昭和10年以前の言い方ということです。
谷中霊園の近辺には寺院が多く、谷中霊園に取り囲まれる形で寛永寺の「寛永寺谷中第一霊園」や「寛永寺谷中第二霊園」、徳川慶喜公墓所、天王寺の「天王寺墓地」、了俒寺の「了俒寺墓地」等の墓所、さらに谷中天王寺の五重塔跡などが存在しており、土地が入り組んでいます。
中央園路の半ばには五重塔跡があります。この五重塔は1645年(寛永21年)に完成しましたが、1772年(明和9年)に大火で焼失しました。その後、1791年(寛政3年)に再建されました。1892年(明治25年)に幸田露伴の小説「五重塔」の題材になったことから一躍有名になり、地域のシンボルとして親しまれるようになりました。しかし、1957年(昭和32年)7月6日に谷中五重塔放火心中事件で焼失してしまいました。焼け跡から男女の死体が発見されたことから、心中を図った男女による放火事件とされています。その後、塔は再建されず、現在は礎石だけが残っているだけです。
谷中霊園の面積は約10万平方メートルで、およそ7,000基の墓があります。現在でも使用者の募集が行われており、使用料は260万円~640万円くらいのようです。

・初代大審院長 玉乃世履(たまのよふみ)の碑

・六代目、七代目 市川團藏の墓

・谷中霊園(やなかれいえん)
住所:東京都台東区谷中7-5-24
電話:
営業時間:
定休日:無
料金:無
駐車場:
アクセス:JR、日暮里駅から徒歩約5分
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