浄林寺(じょうりんじ)

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更新日:
 2024年10月25日



◎浄林寺(じょうりんじ)(2024年10月4日)
 「浄林寺(じょうりんじ)」は、長野県松本市中央にある浄土宗の寺院です。創建当初は「浄蓮寺」という寺名で、中林村にあったそうです。山号、院号は清水山華厳院であり、当初は華厳宗の寺であったことを示しています。14世紀に浄土宗に改宗したそうです。
 その後、信濃国守護であった小笠原清宗が1459年(長禄3年)に信濃国筑摩郡林村(現、松本市里山辺林)に林城を築城した時、中林村より移されたと伝わっているそうです。現在、林城跡の西南西の場所に「浄蓮寺跡(推定地)」という石碑が立っています。寺跡の近辺に「浄蓮寺畑」等の地名が残っていることから、跡地以南に境内が広がっていたと推測され、碑が建てられています。
 浄蓮寺は小笠原長時の時代、隣国の甲斐国の守護であった武田晴信(信玄)が信濃侵攻を開始しました。小笠原長時は1548年(天文17年)6月19日に塩尻峠へ進撃したものの武田勢に敗れています。その後、1550年(天文19年)7月15日には本拠の林城も失い、信濃小笠原氏は没落したそうです。この時、林城に隣接していた「浄蓮寺」も焼失したそうです。
 そして「浄蓮寺」は、現在の伊勢町(Mウィングの西側)の地に移されたそうです。林村から移されたことから、寺名が「浄蓮寺」から「浄林寺」に改められたそうです。
 その後、1590年(天正18年)の小田原征伐で後北条氏が滅亡すると、豊臣秀吉の家臣であった石川数正は、信濃国松本(領地は筑摩郡と安曇郡)、10万石を与えられ、信濃に入府しました。すると石川数正によって浄林寺は、石川家の菩提寺となったそうです。石川数正は松本城の築城や、城下町の建設など、松本の発展に寄与したそうです。
 石川数正は、豊臣秀吉の朝鮮出兵のため1592年(文禄元年)に肥前名護屋に出陣したものの、病によって亡くなりました。家督は長男の石川康長が継ぎましたが、遺領10万石のうち石川康長が8万石、二男の石川康勝が1万5,000石、三男の石川康次が5,000石と、分割相続したそうです。石川数正の遺体は京都に運ばれ、1592年(文禄元年)12月14日に京都の七条河原で葬礼が行われた後、浄林寺に祀られたそうです。
 江戸時代には、末寺として浄雲寺(松本市取出)、慶林寺(松本市笹賀)、常照寺(松本市村井町)、善立寺(塩尻市)を持つ松本地方の大寺になったそうです。
 しかし明治になると、廃仏毀釈運動によって1872年(明治5年)に廃寺となったそうです。そして建物の一部は旧開智小学校の前身として利用されたそうです。その後、旧開智小学校の隣にかつての観音堂を本堂とし再興されたそうです。境内には瘡守稲荷神社が鎮座しています。









・山門(松本市重要文化)
 元禄年間(1688年〜1704年)の建造と伝えられており、松本市内の寺の山門の中では最も古いものだそうです。入母屋造りの本瓦葺き四脚門で、左右に両袖を持ち、軒は二軒繁垂木で、門の扉は唐戸です。
 山門の正面には、祐天寺第二世祐海上人筆の「清水山」という山号額がかかっています。







・鐘楼
 1845年(弘化2年)の建立で、諏訪の宮大工、二代立川和四郎富昌の作だそうです。龍の彫物は、三代立川和四郎の弟子で、伊勢町の原田倖三郎の作だそうです。



・浄林寺(じょうりんじ)
 住所:長野県松本市中央1-24-2
 電話:
 営業時間:
 定休日:無
 料金:無
 駐車場:無
 アクセス:JR、松本駅から徒歩約10分