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更新日:
2024年10月25日
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◎松本神社(2024年10月10日)
「松本神社(まつもとじんじゃ)」は長野県松本市にある松本城のすぐ北に鎮座している神社です。お堀と道路を挟んだ向かい側にあります。江戸時代中期、松本城主だった戸田家ゆかりの神社です。地元では「ごしゃ(五社)」と呼ばれているそうです。五社は、松本藩主だった戸田家の祖先を祀る神社で、家臣もこれを氏神としたそうです。
戸田康長(松平康長)は三河国の朝倉川南岸から半島にかけての渥美郡一帯を支配した戸田氏の嫡流で、15代当主の叔父、戸田重貞の戦死によって、主君、徳川家康の命令で跡目を継いだそうです。1615年(慶長20年)の大坂夏の陣の後、大阪の役での功により翌1616年(元和2年)に上野高崎藩5万石に移封されました。そして1617年(元和3年)に信濃松本藩7万石に加増、移封され、松本城に入りました。
戸田康長は松本藩において城下町の建設、徒士や足軽屋敷を建設して集住させ、藩内を15組に分けて新しい行政区画を創設するなどしたそうです。戸田康長が1632年(寛永9年)12月に松本で死去すると、家督は三男の戸田庸直が継いだそうです。
戸田庸直は1633年(寛永10年)4月、播磨明石に移封されたものの、翌年、江戸から上洛途中の東海道鈴鹿関にて18歳で亡くなったそうです。嗣子が無かったため改易されるところだったそうですが、祖父の戸田康長が将軍家光に幼少時から仕え、勲功も多かったことから、甥で養子の戸田光重に家督相続が許されたそうです。戸田光重は1636年(寛永13年)、伯父にあたる松平永兼の霊を祀るため、明石城内に社を設け、新宮と称したそうです。
松平永兼(まつだいらながかね)は、戸田康長(松平康長)の長男で母は久松俊勝の娘、松姫です。松姫は徳川家康の異父妹であり、この時、戸田康長は徳川家康から「松平」の姓を授かったそうです。(本文では、この後も戸田家の姓は「戸田」で統一します。)戸田康長は徳川家康からの信任が厚く、この後の戸田(松平)家の礎を築いた人です。松平永兼は戸田康長の長男であったにも関わらず、家督を相続することなく39歳で亡くなっています。戸田光重は、そんな叔父を不憫に思ったのかもしれません。
戸田光重は1639年(寛永16年)に明石から美濃国加納藩、7万石に移封され、加納城に入ったそうです。1656年(明暦2年)には大坂城代となり、1658年(万治元年)まで務めたそうです。さらに1660年(万治3年)に再び大坂城代を務め、1661年(寛文元年)閏8月まで務めたそうです。戸田光重は1668年(寛文8年)7月晦日に47歳で亡くなりました。
1668年、戸田光重の跡を子の戸田光永が継ぎました。戸田光永は1698(元禄11)年に「新宮」の名称を「暘谷霊社(ようこくれいしゃ)」と変えました。戸田家の社であることから、移封が繰り返されても、一緒に移動させていたようです。
1705年(宝永2年)に戸田光永が亡くなると、戸田光永の長男の戸田光煕が1705年(宝永2年)4月15日に跡を継ぎました。戸田光煕は1711年(宝永8年)2月15日、山城淀藩、6万石に移封されました。そして戸田光煕は1717年(享保2年)9月4日、44歳で亡くなりました。
1717年(享保2年)11月1日、戸田光煕の三男の戸田光慈が跡を継ぐと、同時に志摩鳥羽に移封されました。その後、1725年(享保10年)10月18日、鳥羽藩から信濃松本へ移封となりました。108年振りの松本藩への復帰です。この時、「暘谷霊社」も松本に移設されました。
戸田光慈が1732年(享保17年)に21歳で死去すると、養子としていた弟の戸田光雄が跡を継ぎました。戸田光雄が1756年(宝暦6年)11月1日に江戸呉服橋邸で41歳で死去すると、その跡を長男の戸田光徳が継ぎました。戸田光徳が1759年(宝暦9年)1月6日、江戸呉服橋邸で23歳で死去すると、弟で養子としていた戸田光和が家督を継ぎました。
戸田光和は1774年(安永3年)12月9日に30歳で隠居すると、弟で養子の戸田光悌に家督を譲りました。戸田光悌が1786年(天明6年)に江戸呉服橋邸で32歳で亡くなると、跡を婿養子の戸田光行が継ぎました。
戸田光行は1797年(寛政9年)に三河国田原から片宮(一色兵部少輔義遠:いっしきひょうぶのしょうよしとお)と今宮(戸田弾正左衛門尉宗光:とだだんじょうさえもんのじょうむねみつ)を遷宮し、暘谷霊社に合祀しました。一色兵部少輔義遠は三河などの守護であった一式義範の子で、室町時代に三河国田原の領主だったそうです。その跡を戸田氏の宗光が継いだそうです。戸田宗光は正親待ち三條家の出で、三河国の田原戸田家の祖になった人です。
戸田光行は1800年(寛政12年)2月23日に隠居し、養子の光年(光悌の長男)に家督を譲りました。1831年(天保2年)、戸田光年によって戸田康長(松平康長、洪武)と正室松姫(淑愼)が合祀され、合計五柱を祀ることとなりました。ここから「五社」と称されるようになったそうです。五柱は、いずれも戸田家の礎を築いた人達であり、戸田家の神社であると言えそうです。
1953年(昭和28年)に五社と、その境内にあった若宮八幡宮が合祀され、その結果、名称が松本神社に改められたそうです。




















・若宮八幡宮
松本城の二の丸の西北隅には松本城鎮守社が鎮座していたそうです。島立貞知が、深志城を築城したとされる父の島立貞永を祀って城の鎮守とした社だそうです。そこに、深志を回復し、「松本」と名付けた小笠原貞慶が稲荷を合祀したそうです。
1670年(寛文10年)に水野忠直は社殿の建物を松本市筑摩に移したそうです。正徳年間に水野忠周が神田明神の分霊を若宮八幡に勧請しました。
1825年(文政8年)8月、戸田光年の時代、神道宗家吉田家から若宮八幡の社号を許され、「若宮八幡宮」となりました。元々の社殿は現在の埋の橋の北(島状になっているところ)にあったそうですが、1914年(大正3年)9月に五社の境内に遷宮されたそうです。
若宮八幡宮の神殿は宝暦年間(1751年〜1764年)の建築といい、水野氏時代の建物だそうです。


・松本神社
住所:長野県松本市丸の内10-37
電話:
営業時間:
定休日:無
料金:無
駐車場:
アクセス:JR、松本駅から徒歩約25分
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