松本城

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更新日:
 2024年10月25日



◎松本城(2024年10月10日)
 「松本城」は長野県松本市にある城です。松本城の天守5棟は1930年(昭和5年)に制定された国宝保存法によって1936年(昭和11年)に国宝に指定されています。また、1950年(昭和25年)には文化財保護法によって重要文化財に指定され、さらに1952年(昭和27年)に国宝に指定されています。重要文化財に指定されている城郭建築の中で、国宝に指定されているのは松本城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城の5城のみです。また、現存する最古の天守は福井県の丸岡城ですが、五重天守としては松本城が最古です。
 元々、松本城のあたりには「深志城(ふかしじょう)」という城があったそうです。室町時代、この地は信濃国の守護、小笠原氏が治めていました。小笠原氏は元々、長野県松本市井川城(地名)にあった井川館(いがわやかた)、を拠点にしていましたが、1459年(長禄3年)に長野県松本市里山辺に林城を築城し、拠点を移したそうです。当時、小笠原政秀や諏訪氏との争いが度々あったため、より強固な居城を作ったようです。1460年には林城の北東2kmくらいの場所に桐原城(きりはらじょう)が築かれています。
 そして1504年(永正元年)、信濃守護の小笠原貞朝は家臣の島立貞永(しまだちさだなが)に城を築くことを命じたそうです。それが「深志城」で、島立貞永は二の丸に居館を構えたそうです。「深志」とは、この城が建てられた場所の地名です。この後も小笠原氏の居城は林城だったようですので、林城の守りを固めるために周辺に支城を築き、家臣らを住まわせたのだと考えられます。
 1541年(天文10年)6月に武田晴信(後の信玄)が甲斐国の守護になると、隣国である信濃に侵攻するようになりました。1542年(天文11年)以降、信濃侵攻を進めてきた武田晴信は1550年(天文19年)7月15日、小笠原長時の林城を攻め落としました。武田晴信は林城を廃して深志城を修築し、北信濃侵攻の拠点とすることに決めたそうです。1550年(天文19年)7月19日に修築の鍬立(くわだて)を行い、23日には総普請に取りかかったそうです。そして、深志城代として馬場信房、信春親子を配置したそうです。この時の普請によって郭が広げられ、堀は3重に広げられた上、土塁が本丸、二の丸、三の丸の周囲に構築されたそうです。この時代、本丸、二の丸、三の丸も全て土塁で囲まれ、石垣は無かったそうです。したがって、松本城の土塁は、武田氏の時代に、その原型が築かれたと考えられているそうです。
 1582年(天正10年)、織田信長と徳川家康による甲州征伐によって3月11日、武田勝頼、信勝父子達は天目山麓の山梨郡田野(東山梨郡大和村)で自害し、武田家は滅亡しました。これによって深志城代、馬場昌房から織田長益に明け渡された後、織田信長によって小笠原氏の旧領は、戦功があった木曾義昌に安堵されたそうです。
 しかしながら、その3ヶ月後、1582年(天正10年)6月2日に発生した本能寺の変によって織田信長が死亡したことで、混乱が起きます。旧武田領国(甲斐、信濃、上野西部)は、織田氏による領国支配体制が固まっていなかったため、本能寺の変後に織田氏との同盟を破棄した後北条氏(北条氏政、北条氏直)、徳川家康、武田氏の滅亡直前まで武田勝頼と同盟を結んでいた越後の上杉景勝、武田氏の傘下に入っていた木曽氏や真田氏らの国衆、旧信濃守護の小笠原氏などが、この地を巡って争いになりました。
 いち早く動いたのは、越後の上杉景勝の後ろ盾を得た小笠原洞雪斎でした。小笠原洞雪斎は信濃国の守護だった小笠原長時の弟です。上杉景勝は家臣の梶田、屋代の両名200騎余を小笠原洞雪斎に同行させました。その結果、1582年(天正10年)6月に小笠原洞雪斎は木曾義昌を放逐し、深志城を奪還しました。
 一方、小笠原氏の旧臣は、三河岡崎で徳川家康の後援を受けていた小笠原長時の三男である小笠原貞慶を擁立したそうです。1582年(天正10年)7月16日に小笠原貞慶は深志城攻めを開始しました。その結果、小笠原洞雪斎は小笠原貞慶との交渉によって梶田、屋代とともに深志城を明け渡しました。小笠原貞慶は「深志城」を「松本城」と改めました。
 これは信濃守護であった父親、小笠原長時が1550年(天文19年)7月15日、武田晴信(後の信玄)に敗れ、信濃の地を追われることになったことから、小笠原貞慶が深志城を奪還した時に「待つ事久しくして本懐を遂ぐ」と述懐し、改名したとされているそうです。
 小笠原貞慶は「信濃府中の奪還」という本懐(目的)を抱いており、やっと念願の地を回復したことから「待つ・本懐」が短縮されて「待つ本 → 松本ということらしいのですが、今一、理解に苦しみます。何故、「待つ」が「松」になるのでしょうか。言葉通りなら「久本」の方が妥当ではないでしょうか。
 1590年(天正18年)に豊臣秀吉が天下を統一すると、徳川家康は関東に移封されました。小笠原貞慶は前年の1589年(天正17年)に家督を息子の小笠原秀政に譲っていましたが、小笠原貞慶は1590年(天正18年)の小田原征伐で前田利家軍に従って軍功を挙げました。その功績が認められ、豊臣秀吉から讃岐半国を与えられたものの、豊臣秀吉の怒りを買って所領を全て没収されて改易されたそうです。前年に家督を譲っていたので関係ないと思われるのですが、何故か、信濃を治めていた小笠原秀政は小笠原貞慶とともに徳川家康に仕えることとなり、徳川家康から下総国古河に3万石を与えられ、親子で移住しました。
 小笠原秀政の後、豊臣秀吉の配下となっていた石川数正が信濃国松本(領地は筑摩郡と安曇郡)10万石を与えられました。石川数正は、豊臣秀吉の命令に従って翌1591年(天正19年)から城郭の整備に着手しました。豊臣秀吉は関東の統治を徳川家康にまかせながらも、家康の勢力拡大を恐れ、江戸を封じるネットワーク、いわゆる「徳川包囲網」を築きました。それが松本城をはじめ、沼田城(真田信幸)、上田城(真田昌幸)、小諸城(仙石秀久)、諏訪高島城(日根野高吉)、甲府城(浅野長政)で、これらの城には豊臣秀吉配下の武将が配置されました。
 石川数正は、豊臣秀吉の朝鮮出兵のため1592年(文禄元年)に肥前名護屋に出陣したものの、病によって亡くなりました。家督は長男の石川康長が継ぎましたが、遺領10万石のうち石川康長が8万石、二男の石川康勝が1万5,000石、三男の石川康次が5,000石と、分割相続したそうです。石川康長は城の普請を続け、天守3棟(天守、乾(いぬい)小天守、渡櫓(わたりやぐら))を築造し、本丸御殿、二の丸御殿も造り、城郭が充実しました。このほかにも総堀を整え、土塁を築き、土塀を建て、諸櫓や門楼を造り、城内の館の修造および武家屋敷の建設を行い、近世城郭として松本城を整備しました。また、鉄砲戦を想定し、堀の幅を広げ、天守の壁を厚くし、銃眼を穿ち、土塁上の土塀にも2000余の狭間を作って武備を固めました。また町人町も家並みが整えられました。



















































































・太鼓門













・松本城
 住所:長野県松本市丸の内4番1号
 電話:0263-32-2902
 営業時間:8:30〜16:30
 定休日:12月29日〜31日
 料金:
 駐車場:
 アクセス:JR、松本駅から徒歩約20分