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更新日:
2012年1月23日
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◎久能山東照宮(2012年1月15日)
久能山は、静岡県静岡市の南部にある標高216mの山です。久能山は、もともと日本平と共に、太古、海底の隆起によって形成されたもので、長い年月の間に浸食作用などのために硬い部分のみが残り、現在のように孤立した山となったと考えられています。すなわち、昔は日本平と続いていたと考えられています。
推古天皇(592〜628年)の頃、久能忠仁が初めて山を開き、一寺を建て、観音菩薩を安置し、補陀落山久能寺と称したとあります。このため、久能山の名称もこれから起こったと思われます。
その後、奈良時代には僧の行基をはじめ、静岡茶の始祖といわれる円爾など、多くの名僧が往来し、隆盛をきわめたようです。
永禄11年(1568年)、駿府へ進出した武田信玄は、久能山が要害であることを聞き、久能寺を近くの北矢部(現在の静岡市清水区)に移し(現在の鉄舟寺)、山上に城砦を設け、久能城と称しました。
その後、天正10年(1582年)に武田氏が亡び、駿河の国一帯は徳川家康の領有するところとなり、久能城もその支配下に入りました。家康は、大御所として駿府に在城当時、「久能城は駿府城の本丸と思う」と、久能山の重要性を説いたといわれています。
晩年を駿河国(現在の静岡県)駿府城で過ごされた家康は、元和2年(1616年)4月17日に75年の生涯を結ばれました。亡くなる直前、余命いくばくもないことを悟られた家康公は家臣たちに「遺骸は久能山に埋葬すること」を遺命として託されました。
家康が亡くなられた後、御遺命の通りに、遺骸はただちに久能山に遷され、二代将軍徳川秀忠は久能山に徳川家康公を祀る神社を造営することを命じました。秀忠の命により宰相頼将(よりまさ)卿(後の紀州家の祖頼宣卿)が総奉行となり、中井大和守清次を大工棟梁として、元和2年5月に着工、 同3年12月に至る僅か1年7ヶ月と云う短期間に造営されたのが久能山東照宮です。
秀忠は日光山麓にも東照社(現、日光東照宮)社殿を造営しましたが、三代将軍、家光の代になって日光山の東照社は荘厳なものに大改築され、日本全国の東照宮の総本社的存在となりました。この「寛永の大造替」と呼ばれる家光の改築事業以前にあった秀忠の代の社殿は、現存する久能山の社殿と同様であったと考えられます。
なお、駿府城代支配の職である久能山総門番として代々久能の地を領して久能山東照宮を管理したのは、交代寄合の榊原家宗家でした。
・久能山東照宮の建造物
社殿は、当時最高の建築技術、芸術が結集された「権現造」の様式で、日光東照宮を始め、全国に多数造営された東照宮は、久能山東照宮が原型とされました。拝殿、石の間、本殿の三棟からなり、 建物、彫刻など総漆塗、極彩色を施し、桃山時代の技法も取入れた江戸初期の代表的な建造物として、明治45年に国宝に指定されています。
神廟(家康公のお墓所)は、御本殿の裏手、約50mの所にあり、御遺命により御遺骸を埋葬し、西向きに建てられています。塔は高さ5.5m、外廻り8mの石造りです。
神廟、神庫、神楽殿、鼓楼、神厩(うまや)、楼門等の諸建造物も、昭和30年に重要文化財にされています。
楼門は、前面に後水尾天皇御宸筆の「東照大権現」の額が掲げてあるため、「勅額御門」とも称えられ、左右に極彩色の随神を、後面左右に生彩色の狛犬と獅子が据えてあります。
久能山東照宮の境内は、面積約65,000平方米(21,000余坪)、高さ海抜270m、境内全域は歴史的価値が高いとこらから、昭和34年6月に国の史跡に指定されています。
落成当初からの多くの建造物が現存していますが、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた明治時代初期に五重塔の破却を余儀無くされました。
また、秀忠が寄進した太刀(国宝)は久能山東照宮博物館に保管され、企画展示などで見られることがあるそうです。
表参道は駿河湾に面し、ゆるやかな坂道の石段です。この石段は、登るに従って視界がますます開けていき、遠くは御前崎や伊豆半島が見え、飽きることなく、楽しみながら登ることができます。ちなみに、この石段は1159段あるそうです。また、参道には諸侯奉納の石燈篭が並んでいます。
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