御穂神社

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更新日:
 2018年6月13日



◎御穂神社(2018年6月13日)
 御穂神社(みほじんじゃ)は、静岡県静岡市清水区三保にある神社です。天女が舞い降りたという羽衣伝説ゆかりの「三保大明神」として知られる神社です。「みほ」の字は、「御穂」のほか「御廬」、「三穂」、「三保」とも書かれるようです。「御廬」の「廬」とは「仮に設けられた屋舎」のことで、「御廬」とは「神がお住になるところ」で、もともとは神事のたびに仮屋が設けられ、神が降臨された神聖な場所だったと考えられているそうです。神社境内と参道(神の道)は、2013年にUNESCOの世界遺産リストに登録された世界文化遺産「富士山−信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の1つ「三保の松原」の範囲に含まれています。
 創建は不詳です。御祭神として大国主命(おおくにぬしのみこと、別名、大己貴命(おおあなむちのみこと)、三穂津彦命(みほつひこのみこと))と、三穂津姫命(みほつひめのみこと)を祀っています。天照大神が高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の御子の中で一番美しい三穂津姫命を大国主命の大后(おおきさき)とお定めになり、大国主命は三穂津彦命と改名され、御二人の神はそろって羽車に乗って新婚旅行に景勝の地、海陸要衝三保の浦に降臨され、国土の隆昌と皇室のいや栄とを守るため三保の神奈昆(かむなび)(天神の森)に鎮座されたそうです。これが御穂神杜の起源とのことです。
 参道である約500mの松並木は「神の道」と言われ、その先にある三保の松原に「羽衣の松」があります。この参道は羽衣の松を依代として降臨した神が御穂神社に至るための道とされています。このため「神の道」と呼ばれているそうです。毎年11月1日に、舞殿にて羽衣の舞が奉納される例祭が行われています。
 また2月14日の深夜から15日の未明にかけて豊作祈願の「筒粥祭(つつかゆさい)」が執り行われます。御穂神社創建以来の神事で、夜半、羽衣の海岸で神迎の神事を行い、あらかじめ拝殿の前庭にすえられた大釜で筒かゆを焚き上げて、その竹筒の中に入る粥の分量によって五殻その他の農作物、漁業及び株式の吉凶の占いを行うそうです。また御粥をいただく者は無病息災疑いなしと伝えられているそうです。
 平安時代に編纂され、901年(延喜元年)に完成した歴史書である「日本三代実録」によると865年(貞観7年)に「御廬神」という神名で従五位下から従五位上に昇叙されたという記載があり、これが御穂神社に関する最も古い記述だそうです。また879年(元慶3年)には正五位下に神階が昇叙されたという記述もあるそうです。
 905年(延喜5年)、醍醐天皇の命により藤原時平らが編纂を始め、時平の死後は藤原忠平が編纂に当たり、927年(延長5年)に完成した「延喜式」の神名帳では駿河国廬原郡(庵原郡)に「御穂神社」と記載され、式内社に列しているそうです。当時は天神森という地に祀られていましたが、1522年(大永2年)10月、細川弾正忠孝範が起こした戦による火事にあい、200mほど離れた現在の地に遷座されたそうです。
 1557年(弘治3年)には山科言継が今川義元の勧めで「三浦之大明神」と記される御穂神社に参詣し、禰宜の大田氏(太田氏)に礼を遣わしているそうです。1577年(天正5年)には太田喜三郎が三保の神主職に補任、大明神御供免松原浦等が安堵されたそうです。
 徳川家康からは朱印地として三保、折戸、別符の3カ村の106石が与えられ、社殿も整備されたそうです。また慶長年間(1596年〜1615年)には徳川幕府によって本殿、幣殿、拝殿、廻廊等が新築されたそうです。しかし、1668年(寛文8年)の落雷による火災によって焼失したそうです。現在の社殿は、その後、仮宮として建てられたものだそうです。
 西暦1773年(安永2年)に静岡市で起きた大火事(駿府の大火)の際、静岡浅間神社の二頭の神馬(しんめ)が、御穂神社に逃れてきたそうです。その後、一頭は浅間神社に帰ったそうですが、もう一頭はこの地に残ったそうです。この残った神馬は相当な神徳の持ち主で、参拝する人々の願い事を叶えてくれたそうです。
 1873年(明治6年)に近代社格制度において郷社に列し、1898年(明治31年)に県社に昇格しました。

・御穂神社
 住所:静岡市清水区三保1073
 電話:054-334-0828
 営業時間:8:00〜17:00
 定休日:無
 料金:無
 駐車場:有
 アクセス:東名高速道路、清水ICから30分