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更新日:
2024年12月5日
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◎駿府城公園(すんぷじょうこうえん)(2024年11月25日)
「駿府城公園(すんぷじょうこうえん)」は、静岡県静岡市葵区にある公園です。江戸時代にあった駿府城の跡地を利用した公園です。
この地は、昔は駿河国(するがのくに)と呼ばれていました。この駿河国は室町時代、今川範国(のりくに)が守護に任ぜられたことから、駿府城公園の周辺に今川氏が館を構えていたと考えられています。
その後、天文5年(1536年)に今川義元が今川館の主となりましたが、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に今川義元は桶狭間で織田信長に討ち取られてしまいました。息子の今川氏真が跡を継ぎましたが、22歳と若かったため領内を統治できず、永禄11年(1568年)に武田信玄が駿河に侵攻した結果、今川氏真は敗走し、今川館は焼失しました。
その後、武田領となっていましたが、天正10年(1582年)に織田信長に攻められ、武田家は滅亡しました。その結果、駿河国は徳川家康が領有し、治めるようになりました。そして徳川家康は天正13年(1585年)から駿府城の建築を始めました。駿府城は近世城郭として設計され、天守が築造されたそうです。そして翌天正14年(1586年)、徳川家康は浜松城から駿府城に移り、居城としました。
さらに天正18年(1590年)、北条氏が滅亡すると豊臣秀吉によって徳川家康は関東に移封されました。この時、徳川領国と接する駿府城には豊臣系大名の中村一氏が入城しました。中村一氏は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属しましたが、合戦前の7月17日に病死しました。しかし、合戦には弟の中村一栄や、家督を継いだ長男の中村一忠が出陣し、美濃で戦ったことから、その戦功によって伯耆一国、米子城17万5,000石および国持大名の格式を与えられ、移封しました。
そして慶長6年(1601年)、徳川家康の近臣である内藤信成が駿河国、駿府城主となりました。徳川家康は慶長8年(1603年)2月12日、右大臣、征夷大将軍、源氏長者、奨学淳和院等別当、牛車兵仗等に任じられましたが、2年後の慶長10年(1605年)4月16日、将軍職を辞するとともに朝廷に嫡男、秀忠への将軍宣下を行わせました。これにより徳川家康は江戸城から駿府城に居を移すことになり、1606年(慶長11年)、内藤信成を近江国、長浜城主に移封しました。この時、天下普請によって駿府城の大修築が行われ、3重の堀を持つ輪郭式平城になったそうです。
しかし、1607年(慶長12年)、城内からの失火によって完成間もない本丸御殿が焼失したそうです。その後、直ちに再建工事が開始され、慶長13年(1608年)に本丸御殿が完成、慶長15年(1610年に)天守が完成したそうです。天守台は石垣上端で約55m×48mという城郭史上最大級の規模だったそうです。天守曲輪は7階の天守が中央に建つ大型天守台の外周を隅櫓、多聞櫓などが囲む特異な構造だったそうです。
元和2年(1616年)4月17日、巳の刻(現在の午前10時)頃、徳川家康が駿府城において75歳(満73歳4か月)の生涯を閉じました。当時、家康の十男、徳川頼宣(当時15歳)も駿府城に住んでいたようですが、元和5年(1619年)7月19日、18歳の時、紀伊国、伊勢国の計55万5千石への転封を命じられました。その後、寛永元年(1624年)7月に徳川秀忠の三男である徳川忠長に与えられましたが、忠長は寛永8年(1631年)5月に甲府への蟄居を命じられたことから、駿府城の城主は不在となりました。以後、幕末まで城代が置かれ、幕府によって管理されました。
しかし、その間も駿府城は、様々な災害に会います。寛永12年(1635年)には城下より出火し、城内に延焼した結果、天守、御殿、櫓、塀などの大半が焼失しました。寛永15年(1638年)に御殿、櫓、城門等が再建されたものの、天守は再建されなかったそうです。宝永4年(1707年)には宝永地震によって駿府城の石垣や建物の約1/3が倒壊したそうです。宝永5年(1708年)に修築工事が行なわれたそうです。しかしながら、安政元年(1854年)に発生した大地震(安政の地震)によって駿府城内外の建物、石垣などがほぼ全壊したそうです。安政4年(1857年)に修復工事が開始され、翌安政5年(1858年)完了したそうです。
明治維新後、1871年(明治4年)には廃藩置県によって静岡藩となりましたが、これ以降、城内の建物が破却され、南側が県庁敷地、それ以外は茶畑に転用されたそうです。1891年(明治24年)には静岡市に払い下げられ、公園(中央公園)となったそうです。しかし、1896年(明治29年)、歩兵第34連隊の誘致に伴い、本丸堀(内堀)は埋められ、城郭施設はすべて取り壊されたそうです。1896年(明治29年)には駿府城跡が陸軍省に献納されました。
戦後、1949年(昭和24年)に大蔵省から静岡市に再度、払い下げられ、公園としての整備が行われました。1951年(昭和26年)、市民に公園の名称を公募した結果、「駿府公園」と命名されました。1966年(昭和41年)には、地名をそれまでの追手町から分離し、「駿府公園」として新設され、住居表示されるようになりました。
その後、1989年(平成元年)には市制100周年記念事業として、巽櫓(たつみやぐら)が復元されました。1996年(平成8年)には東御門(ひがしごもん)が復元されました。巽櫓も東御門も、それぞれ伝統工法による本建築で復元されており、内部は資料館として公開されています。2006年(平成18年)には日本100名城(41番)に選定されました。そして2012年(平成24年)4月1日に「駿府公園」を「駿府城公園」に改称されました。さらに2014年(平成26年)4月2日には坤櫓(ひつじさるやぐら)が復元されました。

・巽櫓(たつみやぐら)

・東御門橋(ひがしごもんはし)


・東御門(ひがしごもん)






・本丸堀

・坤櫓(ひつじさるやぐら)

・本丸発掘調査

・徳川家康像


・家康手植えのミカン


・中堀


・駿府城公園
住所:静岡県静岡市葵区駿府城公園1-1
定休日:無
料金:無
駐車場:無
アクセス:JR、静岡駅から徒歩約15分
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