次郎長生家(じろちょうせいか)

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更新日:
 2022年5月25日



◎次郎長生家(じろちょうせいか)(旧、高木家住宅)(2022年5月22日)
 「次郎長生家(じろちょうせいか)」は、江戸期は渡世人、明治期は社会事業家として活躍した清水次郎長(しみずのじろちょう、1820年(文政3年)〜1893年(明治26年)が生まれた家です。
 清水次郎長は本名が山本長五郎で、商家である高木三右衛門の次男としてこの家に生まれました。しかし、母親の弟で200mほど離れた同じ通りの米問屋、甲田屋を営んでいた山本次郎八(やまもとじろはち)の養子に出され、「次郎八のところの長五郎」ということで「次郎長」と呼ばれました。
 養父の次郎八が1835年(天保6年)に亡くなると、甲田屋の主人となりました。次郎長は妻帯して家業に従事する一方、博奕を行い、喧嘩も繰り返していたそうです。1843年(天保14年)に喧嘩の果てに人を斬ると、妻を離別して実姉夫婦に甲田屋の家産を譲り、江尻大熊ら弟分とともに出奔し、無宿人となりました。諸国を旅して修行を積み、交際を広げ、成長した次郎長は清水湊に一家を構えたそうです。
 戊辰戦争の際、1868年(慶応4年8月23日)に銚子沖で暴風雨に遭って榎本艦隊とはぐれ、下田港に漂着した後、修理のために清水に咸臨丸が入港していました。しかし、咸臨丸は修理が遅れたため新政府軍艦隊に追い付かれ、新政府軍艦隊に敗北し、乗組員の多くは戦死または捕虜となりました。清水次郎長は「仏に官軍も賊軍もない」として咸臨丸の中に放置されていた乗組員の遺体を小舟を出して収容し、清水市築地町に丁重に埋葬しました。
 その後、明治時代には清水次郎長は久能寺(現、鉄舟寺)や臨済寺の改修のための資金を集めたり、富士山南麓の開墾事業を行なったり、清水港を整備したり、地域の発展に貢献しました。1884年(明治17年)4月に養子の天田愚庵が次郎長の数奇な生涯を描いた「東海遊侠伝」を出版したことで、次郎長の名が全国に広まったそうです。「次郎長一家」の物語は、講談や浪花節の題材となり、さらに小説や映画にもとりあげられ、国民的な人気を博したそうです。その後、1893年(明治26年)に風邪をこじらせ、清水次郎長は73歳で亡くなりました。
 その清水次郎長が生まれた旧、高木家住宅は、美濃輪町の次郎長通りに面しており、通りと巴川に挟まれた場所にあります。次郎長が産湯に使った井戸が当時のまま保存され、清水次郎長や大政、小政の写真、次郎長が使った道具類、資料などが展示されています。居間なども当時のままに保存されています。
 建物は江戸末期の建築と考えられ、間口2間半で、奥行き5間半の平屋と背面側の奥行四間二尺の二階建てを繋ぎ、正面右に1間の幅の土間があります。中庭を設け、通り土間で表と裏をつなぐ建築構成は町屋建築の特徴だそうです。しかし、建物の老朽化が進んだため、2016年(平成28年12月)下旬から改修工事が行われ、2017年(平成29年)7月8日にリニューアルオープンしました。
 江戸末期の建物が残されていることが貴重であることから、「一国土の歴史的景観に寄与している」として、2018年(平成30年)3月27日に国の登録有形文化財(建造物)に、登録されました。次郎長にちなんだお土産も販売されており、何でも願い事が叶うという「勝札」が人気だそうです。









・次郎長生家(じろちょうせいか)
 住所:静岡県静岡市清水区美濃輪町4-16
 電話:054-353-5000
 営業時間:10:00〜16:00
 定休日:火曜日
 料金:無
 駐車場:有(4台)
 アクセス:JR、清水駅から車で約6分