延暦寺

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更新日:
 2019年10月6日



◎延暦寺(2019年10月5日)
 「延暦寺」とは、滋賀県大津市坂本本町にある標高848mの比叡山の山内にある1700ヘクタールの境内地に点在する100ほどの堂宇の総称です。「延暦寺」という一棟の建造物があるわけではありません。山内を地域別に、東を「東塔(とうどう)」、西を「西塔(さいとう)」、北を「横川(よかわ)」の三つに区分しています。これを三塔と言い、それぞれに本堂があります。
 比叡山は、滋賀県大津市の西南、滋賀・京都県境に位置する山です。古事記に「淡海(おうみ)の日枝(ひえ)の山」として記されており、古くから山岳信仰の対象とされてきたようです。
 延暦寺の歴史は、平安時代の僧、最澄(さいちょう:767年~822年)が788年(延暦7年)に比叡山に入り、一乗止観院(いちじょうしかんいん)と名付けた草庵を建て、自らが彫った薬師如来を安置し、開創、修行に入ったのが始まりです。
 最澄は中国の仏教書を読み、そこに引用されている中国天台宗の祖、天台大師の教えを学びました。そして「法華経」を中心とする天台の教えこそが全ての人々を仏へと導くために最善の教えであると考え、天台大師の著述になる「法華三大部」(「法華玄義」、「法華文句」、「摩訶止観」)を研究したそうです。
 802年(延暦21年)、最澄は桓武天皇の側近であった和気広世(わけのひろよ)、和気真綱(わけのまつな)兄弟の招きによって高雄山寺(たかおさんじ、現在の京都、神護寺)で天台の教えを講義しました。これが新しい仏教の力を求めていた桓武天皇に知られることとなり、802年(延暦21年)、桓武天皇による遣唐使の1人に選ばれ、804年(延暦23年)に唐に入りました。
 最澄は天台宗の聖地である天台山を目指し、麓の台州で天台山修善寺座主の道邃(どうずい)和尚と出会い、天台教学の書物を借り、書写の便宜を図ってもらったそうです。さらに天台山に向かった最澄は天台山仏隴寺(ぶつろうじ)座主の行満(ぎょうまん)和尚から天台教学を伝えられ、また、禅林寺の翛然(しゅくねん)禅師からは坐禅を学びました。天台山での受法を終えた最澄は再び、台州に戻り、道邃和尚から天台教学と大乗菩薩戒を授かりました。その後、船の出航までの間に越州(現在の)に赴き、霊巌寺の順暁阿闍梨(じゅんぎょうあじゃり)から当時、唐で盛んになっていた密教の一端を伝えられました。そして805年(延暦24年)、日本に戻ると高雄山寺で奈良の学僧達に日本で初めて密教の潅頂(かんじょう)を授けました。
 806年(延暦25年)1月26日、最澄の上表によって、それまで存在していた諸宗に加えて新たな年分度者が認められました。年分度者とは、国家が正式に認めた僧侶のことで、毎年、決まった人数だけが選ばれ、天台宗では2名が与えられることになりました。これにより、天台宗が公に認められたことになりました。このことから、1月26日が天台宗開宗の日とされています。
 最澄は比叡山に篭もって修学修行に専念する12年間の教育制度を確立しました。これにより、後に浄土念仏の法然、親鸞、禅では臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、法華経信仰の日蓮といった僧がここから巣立ち、比叡山延暦寺が日本仏教の母山と呼ばれるようになりました。
 最澄は822年(弘仁13年)6月4日、56歳でこの世を去りました。彼の死を惜しんだ当時の天皇、嵯峨天皇(さがてんのう)が823年(弘仁14年)、「比叡山寺」に「延暦寺」という寺号を授けました。年号を寺号にしたのは、日本ではこれが最初だそうです。すなわち最澄の死後、延暦寺と呼ばれるようになったということです。これにより、「一乗止観院」は「根本中堂」と改称されました。現在、東塔の根本中堂が当初の一乗止観院で、中には最澄が自ら彫った薬師如来が安置され、その前には「不滅の法灯」というものがあるそうです。なお、最澄の命日には延暦寺を始めとした全国の天台宗寺院で「山家会(さんげえ)」という法要が行われているそうです。
 最澄が没した後、中国語の通訳として最澄とともに唐へ渡り、最澄と同じく道邃から円頓戒を、順暁から密教の付法を承けて日本へ帰国していた義真が比叡山大乗戒壇初の授戒の伝戒師となりました。翌824年(天長元年)には初代の天台座主に就任し、832年(天長9年)には天台宗の僧として初めて維摩会の講師となりました。
 その後、854年(仁寿4年)4月3日に61歳で第3代天台座主に任命された円仁(794年(延暦13年)~864年(貞観6年))は「横川(よかわ)」を開き、東塔地区も整備していきました。868年(貞観10年)に第5代座主となったのが円珍(814年(弘仁5年)~881年(寛平3年))ですが、この2人の考え方の違いが、その後、争いを生むことになったようです。
 最澄が導入した天台宗は、様々な思想を融合しており、非常に難解な思想だそうです。当時の朝廷は密教の思想を好みましたが、最澄は天台宗に密教の考え方をうまく組み込むことができなかったそうです。円仁は、法華経の教えと密教の教えは同等であると考えたのに対して、円珍は、法華経と密教では両者は同じ教えを説いているが密教の方が大事であると考えたそうです。この密教に対する考え方の違いが、円仁と円珍の死後、円仁、円珍のそれぞれの考え方を引き継いだ人達によって争いが起きたそうです。993年(正暦4年)には円仁派が比叡山の円珍派の坊舎を焼き払う事件が起き、これにより円珍派1000人余りの僧侶が比叡山を降り、園城寺(おんじょうじ)に入って独立しました。園城寺は、円珍が生きていた頃に拠点としたお寺だったそうです。
 この争いの中で僧侶は武装をするようになり、「僧兵」と呼ばれる軍事力を持つようになったそうです。平安時代、比叡山も園城寺も多くの有力者をパトロンに持ち、広大な荘園を所有していたそうです。その荘園の管理のために僧兵という武力を持った僧が増え、対立になれば武力での衝突、という形になったようです。
 この僧兵の武力は強大化していき、平安時代の後期に強大な権力を有していた白河法皇が、自分の意のままにならない「三不如意」の1つに数えるほどの存在になっていきました。(三不如意とは、白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたことから、時の権力者である白河法皇でさえも思い通りにならない3つのことがあると言われたmのです。「賀茂河の水」は、古来、氾濫を繰り返し、暴れ川として知られていた賀茂川がもたらす水害です。「双六の賽」は、盤双六の二つのサイコロが出す「賽の目」のことです。「山法師」は、神輿を担いで都に雪崩れ込み、強訴を繰り返した比叡山延暦寺の僧兵のことです。)
 僧兵たちは神仏の威を背景に、時の権力者に自らの主張を無理やり通す「強訴」をたびたび実行しました。このような寺社勢力は強大な力を持つようになり、源平合戦として有名な源氏と平家の戦いでは、比叡山は平清盛と親密な関係にあったため、1180年(治承4年)に以仁王の挙兵に応じた源頼政は園城寺の力を借りて平家と戦ったそうです。
 室町幕府の第6代将軍、足利義教(よしのり)は、もともと義円と名乗る僧侶で、1419年(応永26年)11月に153代、天台座主となり、比叡山延暦寺にいました。1429年(正長2年)に征夷大将軍に就任すると弟の義承を天台座主に任じ、天台勢力の取り込みを図りました。しかし1433年(永享5年)7月19日に延暦寺山徒は幕府の山門奉行飯尾為種や、光聚院猷秀らに不正があったとして十二ヶ条からなる弾劾訴訟を行いました。満済や管領細川持之が融和策を唱えたため、閏7月7日に義教は為種や猷秀を配流することで事件を収めました。しかし、延暦寺山徒は勝訴の勢いにのり、8月12日、訴訟に同調しなかった園城寺を焼き討ちしました。足利義教は激怒し、自ら兵を率いて園城寺の僧兵とともに比叡山を包囲しました。12月12日に延暦寺側は降伏し、和睦が成立しました。
 1434年(永享6年)7月、延暦寺が鎌倉公方、足利持氏と通謀して足利義教を呪詛しているとの噂が流れたそうです。8月、足利義教は近江の守護である京極持高、六角満綱に命じて、近江国内に多くあった延暦寺領を差し押さえさせ、比叡山一帯を包囲して物資の流入を妨げました。これに対し、8月23日と10月4日に延暦寺は神輿を奉じて入洛したものの、幕府の兵に撃退されました。
 1434年(永享6年)11月19日、足利義教は諸将を派遣しました。11月26日に軍兵が比叡山の門前町である坂本の民家に火をかけ、住民が山上へ避難する騒ぎとなったそうです。12月6日に延暦寺側が降伏を申し入れ、管領、細川持之ら幕府宿老も赦免要請を行いましたが、足利義教は承諾しませんでした。12月10日、持之ら幕府宿老5名が「比叡山赦免が成されなければ、自邸を焼いて本国に退去する」と強硬な要請を行った結果、12日に足利義教が折れて和睦が成立し、延暦寺代表の山門使節4人を謁見した後に軍を引きました。さらに18日には没収した寺領を延暦寺に返付しました。
 1435年(永享7年)2月、足利義教は先の4人を京に招きましたが、上洛しませんでした。しかし、管領の誓紙が差し出されたため、4日に4人が出頭したところ、彼らは捕らえられ、首をはねられました。これを聞いた延暦寺の山徒は激昂し、5日に抗議のため根本中堂に火をかけ、24人の山徒が焼身自殺しました。その炎は京都市内からも見え、騒然となったそうですが、足利義教は比叡山について噂する者を斬罪に処す触れを出しました。その後、山門使節の後任には親幕府派の僧侶が新たに任命され、半年後には根本中堂の再建が開始されました。
 1441年(嘉吉元年)に「嘉吉の乱」によって足利義教が討ち取られると、延暦寺は再び武装し、戦国時代になると、なかば独立国家のように振る舞っていました。そんな中、織田信長という武将が台頭してくると、延暦寺と対立するようになります。勢力を拡大していた織田信長は、延暦寺がもっていた領地を横領しました。延暦寺側は朝廷に働きかけて返還を求めましたが、織田信長は従いませんでした。
 1570年(元亀元年)、織田信長は浅井長政と朝倉義景の連合軍と戦い、勝利しました。(「姉川の戦い」と呼ばれる戦)この後、浅井・朝倉陣営は近江、越前周辺では延暦寺の僧兵衆や石山本願寺の一向一揆と手を結び、湖西の志賀郡などで攻防戦が繰り返されました(志賀の陣)。このため1571年(元亀2年)9月12日に織田信長は、浅井・朝倉を支持する比叡山を焼き討ちしました。これにより、延暦寺の勢力は弱まりました。
 織田信長は戦後処理を明智光秀に任せ、翌9月13日午前9時頃に精鋭の馬廻り衆を従えて比叡山を出立し、上洛していきました。その後、三宅・金森の戦いでは近江の寺院を放火していきました。延暦寺や日吉大社は消滅し、寺領、社領は没収され、明智光秀、佐久間信盛、中川重政、柴田勝家、丹羽長秀に配分しました。この5人の武将達は自らの領土を持ちながら、各々、与力らをこの地域に派遣して治めることになりました。
 その後、本能寺の変で織田信長が倒され、山崎の戦いで明智光秀が敗れると、生き残っていた僧侶達が続々と帰山し始めたそうです。そして羽柴秀吉に山門の復興を願い出たものの、簡単には許されなかったそうです。山門復興こそ簡単には許さなかったものの、詮舜とその兄、賢珍の2人の僧侶は秀吉に気に入られ、陣営への出入りを許され、軍政や政務について相談されるなどし、少しずつ秀吉の心をつかんでいったと考えられているそうです。
 そして小牧・長久手の戦いで出軍している秀吉に犬山城で度重なる要請を行い、1584年(天正12年)5月1日、僧兵を置かないことを条件に正覚院豪盛と徳雲軒全宗に対して山門再興判物が発せられ、造営費用として青銅1万貫が寄進されました。比叡山焼き討ちから約13年後のことです。
 その後、豊臣秀吉や徳川家康によって僧坊が再建され、現在の根本中堂は徳川家光の命で1642年(寛永19年)に竣工したものです。ご本尊の前には、千二百年間灯り続けている「不滅の法灯」も安置されており、建物は国宝に指定されています。また、廻廊は国重要文化財に指定されています。















・根本中堂
 延暦寺には三塔(東塔、西塔、横川)にそれぞれ中心となる仏堂があり、これを「中堂」と呼んでいます。東塔の根本中堂は、その中で最大の仏堂であり、延暦寺の総本堂です。本尊は現生の人々を心身の病気や不安などから救済してくれる薬師如来です。
 延暦寺を開いた788年(延暦7年)に創建した一乗止観院(いちじょうしかんいん)が元であり、その後、何回も災害に遭いましたが、復興の度に規模も大きくなりました。
 現在の建物は、徳川家光の命で1642年(寛永19年に竣工されたものです。ご本尊の前には、千二百年間灯り続けている「不滅の法灯」も安置されています。建物は国宝に指定されており、廻廊は国の重要文化財に指定されています。







・大講堂前の鐘楼
 1打ち、50円です。









・大講堂
 1964年(昭和39年)に山麓、坂本にあった讃仏堂(1634年(寛永11年)の建築物)を移築したものです。本尊は大日如来で、その左右には比叡山で修行した各宗派の宗祖の木像が祀られています。また、外陣には釈迦を始めとして仏教、天台宗ゆかりの高僧の肖像画がかかっています。国の重要文化財に指定されています。





・戒壇院
 1678年(延宝6年)に再建された建物で国の重要文化財に指定されています。石積みの基壇上に建てた方三間の栩葺き(とちいたぶき)です。外観は宝形二重屋根の方五間の禅宗様の仏堂に見えますが、2階部分はなく、裳階(もこし=ひさし)です。
 内部は石敷きで釈迦如来、文殊菩薩、弥勒菩薩が祀られています。天台宗の戒律を授ける年1回の儀式の時だけ扉が開きます。これまで一般公開されたことはなく、戒律を授かる僧侶にとっても中に入るのは一生に一度の聖域だそうです。







・文殊楼
 高い石段を隔てて、根本中堂の東側にあります。延暦寺の山門にあたり、徒歩で本坂を登ってくると、まずこの門を潜ることになります。円仁が中国五台山の文殊菩薩堂に倣って創建し、864年(貞観6年)に完成しました。
 1642年(寛永19年)、徳川家光により重層和唐様式に再建されました。しかし、1668年(寛文8年)の火事で焼失し、その後、再建されたものが現在の建物です。知恵を与えてくれる文殊菩薩をご本尊としているお堂です。













・大黒堂
 最澄が比叡山に登った時、この地において大黒天を感得し、三面大黒天を自刻し、安置した場所と言われています。本尊は、三面六臂大黒天(さんめんろっぴだいこくてん)で、米俵の上にのり、食生活を守る大黒天を中心に、右に勇気と力を与える毘沙門天、左に美と才能を与える弁財天がいます。さらに合わせて6本の手には衆生の福徳を叶なえ、苦難を除く様々な道具を持っています。正面の大黒天の左手には願いをかなえる如意宝珠、右手には煩悩を断ち切る智慧の利剣、弁財天の左手には福を集める鎌、右手には世福を収納し、人々の願いに応じて福を与える宝鍵、毘沙門天の左手には七財を自在に施す如意棒、右手には魔を降す鎗(槍)です。
 羽柴秀吉がこの三面大黒天に出世を祈願し、その後、太閤にまで昇りつめたことから「三面出世大黒天」と呼ばれるようになったそうです。





・星峰稲荷社(ほしみねいなりしゃ)
 この場所はもともと「星峯(ほしのみね)」という名前で、延暦寺が出来た頃に荼枳尼天(だきにてん)が白雪をまとった狐の姿で現れ、人々の罪や穢れを祓い、福徳を施してくれたそうです。それ以降、公家衆の信仰が篤く、このお堂に祀られているそうです。









・清海鎮大使 張保皐 碑





・阿弥陀堂
 延暦寺開創1150年を記念して、1937年(昭和12年)に建立された建物です。先祖、故人を供養するお堂で、毎日、回向法要が行なわれています。京都伏見の国宝、法界寺阿弥陀堂を模した建物で、本尊として阿弥陀如来が祀られています。





・阿弥陀堂前の鐘楼



・阿弥陀堂前の水琴窟



・国連平和の鐘





・比叡山延暦寺
 住所:滋賀県大津市坂本本町4220
 電話:077-578-0001
 営業時間:8:30~16:30、西塔、横川は16:00まで。季節により変動あり。
 定休日:無
 料金:大人1,000円、中高生600円、小学生300円
 駐車場:120台
 アクセス:坂本ケーブル、ケーブル延暦寺駅から徒歩10分