宗安寺(そうあんじ)

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更新日:
 2004年6月6日




◎宗安寺(そうあんじ)(2004年5月11日)
 京橋通りにある浄土宗のお寺です。彦根藩、初代藩主、井伊直政(いいなおまさ)が作ったとされています。井伊直政は徳川家康に仕え、上野国箕輪(こうずけのくにみのわ、群馬県高崎市)に12万石で封ぜられ、1598年(慶長3年)に箕輪城を廃し、南の和田城を改築して高崎城と改称して新たな居城としていました。この上野国箕輪の安国寺に井伊直政の正室、東梅院の父、松平康親の菩提寺とし、東梅院の父母の菩提を弔っていたそうです。
 安国寺は全国にあるお寺で、足利尊氏が建てたそうです。足利尊氏は南北朝の動乱が収まると、後醍醐天皇をはじめとする南朝の戦没者の菩提を弔うため、日本全国68ヶ所に安国寺を建てました。1394年(応永元年)が68番目、国東(大分)の安国寺であり、これが最後となります。このため上野国箕輪の安国寺は1394年(応永元年)以前に建てられていたはずです。
 井伊直政は、1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官、石田三成の居城であった佐和山城に入城しました。この時、上野国箕輪の安国寺を佐和山(232.5m)山麓に移し、宗安寺と改名したそうです。
 井伊直政は佐和山城を嫌い、琵琶湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していたそうですが、関ヶ原の戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去してしまいました。家督を継いだ井伊直継が幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して直政の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)、琵琶湖に面した彦根山(別名、金亀山)に彦根城の築城を開始しました。
 彦根城築城の際、宗安寺は佐和山山麓から現在の場所に再移転されたそうです。また、佐和山城の朱塗りの正門を宗安寺の門として移設したそうです。すなわち、宗安寺の赤門は石田三成の居城、佐和山城の正門だったということです。
 1701年(元禄14年)、火事があり、赤門以外は、ほとんど焼失してしまったそうです。現在の本堂は、1702年(元禄15年)に羽柴秀吉の居城だった長浜城の付属御殿を移築したものだそうです。また、本尊の阿弥陀如来立像は、大坂夏の陣の時、淀君の念持仏(ねんじぶつ)と思われる仏像を持ち帰ったもので、鎌倉時代の作といわれているそうです。
 境内の奥、書院からは枯山水庭園と枯池の庭園と、二つの庭園が眺められます。それぞれ浄土宗の「二河白道(にがびゃくどう)」の教えを表現した庭園「彼岸白道の庭(白露の庭)」です。「二河白道」の教えによる庭とは、白砂利は水の河(内向きにとらわれる心、絶望、愛着)、赤砂利は火の河(外に攻撃的なる心、怒り、憎しみ)、位牌堂側は彼岸(極楽浄土)、書院側は此岸(この世)を表しているそうです。さらに渡り廊下は、この世に出現されたお釈迦様のお勧めと、あの世におられる阿弥陀様のお招きを信じて水火二河の煩悩の間を通って、浄土を目指す清浄心(白道)を表しているそうです。なお、月夜には庭園に使われている白砂利(アルゼンチンの石、アズールシュロ)が、白玉の露のように輝いて見えることから「白露庭」とも呼ばれています。
 また、徳川の将軍が替わるごとに祝賀のため朝鮮国から来朝した朝鮮通信使節団高官の彦根での宿泊所として利用されてきたことから、「李朝高官肖像画」や朝鮮王像が残されています。
 墓所には大坂夏の陣で討死した豊臣家の若き勇将、木村重成の首塚があります。木村重成の母親は豊臣秀頼の乳母で、幼少から秀頼に仕え、信任が厚かったそうです。大坂冬の陣では、数に勝る徳川軍と奮戦し、名を挙げたそうです。大坂夏の陣では八尾、若江方面に出陣し、藤堂勢を破ったものの、その後の井伊軍との戦いで討ち死にしました。彦根藩士、安藤長三郎は木村重成の首級を傍らに生い茂っていたススキに包み、彦根に持ち帰り、首実検に使ったそうです。この時、主君より丁重に弔いをするよう指示があり、佐和山の麓の池で丁寧に洗い、己が菩提寺の宗安寺、安藤家墓所に葬り、自家先祖と同様に祭祀することにしたそうです。また、首を包んだススキは、その後、宗安寺に根付き、繁茂したという事で、宗安寺内に「血染めのススキ」として繁殖しています。























・宗安寺(そうあんじ)
 住所:滋賀県彦根市本町2-3-7
 電話:0749-22-0801
 営業時間:9:00〜17:00
 定休日:無
 料金:200円(庭園拝観)
 駐車場:5台
 アクセス:JR、彦根駅から徒歩約20分