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更新日:
2020年5月13日
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◎一条戻橋(いちじょうもどりばし)(2019年10月10日)
一条戻橋(いちじょうもどりばし)は、京都市内の一条通の堀川に架けられた橋です。794年(延暦13年)の平安遷都とともに架けられたと伝えられています。現在の橋は1995年(平成7年)に架け直されたものです。この橋から100メートルほど北にある晴明神社には、1922年(大正11年)から1995年(平成7年)まで実際に使われていた橋の欄干の柱を使用した一条戻橋が縮小版で復元されています。
歴史がありますので、一条戻橋には、いろいろな逸話があります。もともとは「土御門橋(つちみかどばし)」と呼ばれていたそうです。それが、「戻橋」と呼ばれるようになったのは、次のような伝説があるそうです。
平安中期の文章博士(もんじょうはかせ)で参議であった三善清行(みよしのきよゆき)の八男に浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)という修験道を極めた者がいました。918年(延喜18年)に紀州、熊野で修行をしていた浄蔵貴所のもとに父、三善清行が危篤との連絡が入り、急ぎ、実家に戻ったそうです。しかし間に合わず、父、三善清行は亡くなり、その葬儀の列がこの橋を渡っているところに駆け付けたそうです。父の臨終に間に合わなかった事を知った浄蔵貴所が、父に一目会いたいという一心でお経を唱え始めたところ、にわかに暗雲が立ち込め、雷鳴が響き渡たると、棺の蓋が突然、吹き飛ぶように開き、死んだはずの三善清行が一時的に息を吹き返し、父子が抱き合ったとされているそうです。生き返った、すなわち、魂が戻ってきたということで、この橋を「戻り橋」と呼ぶようになったと言われているそうです。ただ、三善清行は延喜18年(918年)12月7日(919年1月16日)または延喜18年(918年)12月6日(1月15日)没とされていますので、生き返ったというか、動いたのは一瞬かもしれません。これ以来、「土御門橋」と呼ばれていた橋は、「戻橋」と呼ばれるようになったのだそうです。
源頼光の四天王の一人として知られる平安時代の武将、渡辺綱(わたなべのつな)は、戻橋のたもとで愛宕山の鬼女が化けた扇折小百合(おうぎおりさゆり)に出会ったそうです。綱は水面に映った影で鬼女だとさとり、源氏の名刀、「髭切の太刀」で鬼女の片腕を切り落としたという伝説があります。
戦国時代になると、一条戻り橋のたもとは、罪人のさらし場所になったそうです。また、当時、最も残虐な刑とされた「鋸引き(のこぎりびき)」が行われた場所でもあったそうです。「鋸引き」とは、罪人の首から下を地中に埋めて、身動きできないようにし、通行人などが鋸で少しずつ罪人の首を切り、ゆっくりと死に至らせるという当時の極刑です。首を切る鋸は、敢えて切れ味の悪い竹で作られものだったされています。天文13年(1544年)、細川晴元により三好長慶の家臣、和田新五郎が戻橋で鋸挽き(通行人に、竹の鋸で首を一挽きずつさせる刑)にされました。「鋸引き」は、残酷すぎるという理由で江戸時代に入ると形式的なものになり、実際には行われなかったようです。
慶長2年(1597年)には、豊臣秀吉によって捕らえられた宣教師とキリシタン達(日本二十六聖人)が左耳を削がれる「耳そぎの刑」が行われたそうです。また、秀吉に命じられて天正19年(1591年)に切腹した茶人、千利休の首がさらされたのも「一条戻り橋」だそうです。
「戻る」ということから、婚礼の行列はこの橋を通ってはいけないという言い伝えがあるそうです。これは、花嫁さんが出戻らないようにという意味です。嫁入り前の娘さんや、その家族も戻橋には近づかないそうです。また、霊柩車もこの橋を通ってはいけないそうです。個人を安らかにあの世へ送りたいということのようです。
逆に「戻る」ということから、戦時中は「無事に家に帰ってこれますように」という願いをこめて、戦争へ向かう前に兵隊さんはこの橋を通ってから戦地へ向かったそうです。また、家族は無事に戻ってこれることを願って戻橋を渡りに来たそうです。


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