天龍寺(てんりゅうじ)

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更新日:
 2019年11月6日




◎天龍寺(てんりゅうじ)(2019年10月11日)
 天龍寺は、臨済宗天龍寺派大本山の寺院です。1339年(南朝:延元4年、北朝:暦応2年)に吉野山(奈良県)で亡くなった後醍醐天皇の冥福を祈るため、足利尊氏が後嵯峨上皇の亀山殿の跡地にお寺を創建することを決めたことが始まりです。
 造営に際して足利尊氏や光厳上皇が荘園を寄進したものの造営費用が足りなかったそうです。そこで足利尊氏の弟の足利直義は臨済宗の僧侶、夢窓疎石(むそうそせき)と相談し、元冦以来途絶えていた元との貿易を再開することとし、その利益を造営費用に充てることを計画したそうです。これが「天龍寺船(てんりゅうじぶね)」という貿易船です。当時は、「造天龍寺宋船」と呼ばれたそうです。
 1342年(康永元年)8月に元へ渡航した天龍寺船は10月に明州に入港、交易に成功し、莫大な利益を上げて帰国しました。この利益を元手にお寺の建設が進められ、1343年(康永2年)11月に建設が始まり、1345年9月25日(貞和元年8月29日)に後醍醐天皇七回忌にあわせて落慶供養が行われました。
 寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」とする予定だったそうですが、足利直義が寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたそうです。開基(創建者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石です。室町時代には禅寺として京都五山(天龍寺、南禅寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)のうち、第1位の寺格とされました。
 広大な寺域と壮麗な伽藍を誇った天龍寺ですが、何度も火災に見舞われているそうです。大きなものだけで1358年(延文3年)、1367年(貞治6年)、1373年(応安6年)、1380年(康暦2年)、1447年(文安4年)、1468年(応仁2年)、1815年(文化12年)、1864年(元治元年)の8回を数えるそうです。
 特に文安の火災と、応仁の乱による被害が大きく、1585年(天正13年)に豊臣秀吉からの寄進を受けるまで復興できなかったそうです。その後、豊臣秀吉の朱印を受け、順調に復興したものの、文化年間(1804年〜1818年)に再度、被災し、この再建途中の1864年(元治元年)、蛤御門の変に際して長州軍の陣営となり、兵火のために再び伽藍は焼失したそうです。
 これ以後は、歴代の住持の尽力によって少しずつ復旧していき、大方丈(おおほうじょう)、法堂、庫裏(くり)、小方丈(書院)、多宝殿といった建物は明治時代以降に再建されました。ただ、「曹源池庭園(そうげんちていえん)」は開山、夢窓疎石が作庭した当時の面影をとどめています。
 「曹源池」という名前は、夢窓疎石が庭を作っている時に泥の中から、「曹源一滴(そうげんのいってきすい)」と記された石碑が現れたことによるものだそうです。これは禅の言葉で、「一滴の水でも疎かにしてはいけない」という意味だそうです。曹源池庭園は左に嵐山、正面に亀山、小倉山を借景とした池泉回遊式庭園です。池の正面には2枚の巨岩があり、「竜門の滝」をイメージしています。鯉が滝をのぼって龍となるという中国の故事、「登龍門」を表現しています。一般には、滝の下に鯉をかたどった石が置かれていますが、天龍寺の曹源池庭園では滝のまん中に位置し、鯉から龍へと変わる途中の姿を表しているそうです。
 1876年(明治9年)に臨済宗天龍寺派大本山となりました。しかし翌1877年(明治10年)には上地令によって嵐山53町歩を始め(このうち蔵王堂境内175坪を除く)とした亀山全山、嵯峨の平坦部4km四方の境内のほとんどが没収されたそうです。その結果、現在の境内地はかつての10分の1程度、3万坪となったそうです。







・達磨図
 モチーフは禅宗の祖師で、インドから中国に渡って禅宗を伝えた達磨大師です。天龍寺の管長を務められた平田精耕老大師によって描かれたものです。



・曹源池庭園(そうげんちていえん)





















・天龍寺(てんりゅうじ)
 住所:京都府京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町68
 電話:075-881-1235
 営業時間:8:30〜17:30
 定休日:無
 料金:500円(庭園)
 駐車場:有
 アクセス:JR、嵯峨野線、嵯峨嵐山駅から徒歩、約13分