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更新日:
2021年2月26日
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◎大阪城、大阪城公園(2019年7月11日)
大阪城(おおさかじょう)は、安土桃山時代に上町台地の先端、摂津国東成郡生玉荘大坂に築かれ、江戸時代に修築された平山城です。現在の大阪府大阪市中央区大阪城に所在し、別称は錦城(きんじょう)で、金城とも表記されます。現在は「大阪城跡」として国の特別史跡に指定されており、城址を含む一帯は「大阪城公園(おおさかじょうこうえん)」として整備されています。天守は博物館「大阪城天守閣」になっています。
大坂城、あるいは「大阪(おおさか)」という表記には、「大坂」という表記もあります。どちらを使っても良いようですが、正式には「大阪府」、「大阪市」であるので「大阪」という字が現在の正しい字ということになりそうです。時代をさかのぼると、江戸時代以前は「大坂」が一般的だったようです。しかし江戸時代に「大坂」の字が「土に反る」と読めて縁起が悪いとか、「(武)士が反(抗)する」と問題なので「大阪」にしたという説があるようですが、正確なところは分かっていないようです。ただし、明治政府が「大阪」という表記にしていますので、現在では「大阪」が正しいということになります。
明治新政府は1868年(慶応4年)1月22日に「大坂鎮台」を設置しています。1月27日には大坂鎮台を「大坂裁判所」と改称しています。その後、5月2日に「大阪府」を設置しています。その後、1871年(明治4年)7月14日に断行された廃藩置県においても「大阪府」とされています。このことから、明治以前を「大坂城」、明治以降を「大阪城」と区別しているところもありますので、以下でも江戸時代までを「大坂城」、明治以降は「大阪城」を表記します。
大坂城があった場所は上町台地の北端に位置し、この地のすぐ北の台地下には淀川の本流が流れており、天然の要害でした。また、この淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝でもありました。元々は古墳があったとも言われ、戦国時代末期から安土桃山時代初期には「石山本願寺」がありました。石山本願寺は織田信長と激しく対立し、石山合戦(いしやまかっせん)と呼ばれる11年間に渡る戦いがありました。1580年(天正8年)閏3月5日、正親町天皇の勅令によって立入宗継が調停に出向き、双方の和議が成立し、4月9日に顕如が鷺森別院に向けて退去しました。退去を拒んだ雑賀衆の一部とも講和が成立し、8月2日に石山本願寺の明け渡しが行われました。しかし、顕如の長男である教如が退去した直後に堂舎、寺内町が炎上し、石山本願寺は全て灰燼に帰したそうです。二日一夜、炎上し続けたと伝わっています。
織田信長が1582年(天正10年)6月2日、京都の本能寺において明智光秀の謀反により自害した後、次々と織田軍団を掌握し、実験を握っていった豊臣秀吉は、1583年(天正11年)、石山本願寺の跡地に黒田孝高を総奉行として大坂城の建設を開始しました。15年かけて、1598年(慶長3年)に完成した大坂城(豊臣大坂城)を訪れた豊後国の大名、大友宗麟は、この城のあまりの豪華さに驚き、「三国無双の城である」と称えたそうです。当時の大坂城の規模は現在の大阪城公園の約4〜5倍と言われ、本丸中央には金色に輝く天守があり、その巨大さや豪華さは当時、並ぶものがなかったそうです。しかしながら、この大坂城(豊臣大坂城)は1615年(元和元年)の大坂夏の陣で豊臣家滅亡とともに全て焼失しました。
落城後の大坂城は初め、徳川家康の外孫、松平忠明に与えられましたが、松平忠明に課せられた任務は大坂城下の復興であり、城そのものの復興はされなかったようです。1619年(元和5年)に松平忠明は大和郡山へ移封となり、江戸幕府は大坂藩を廃止して大坂を幕府直轄領(天領)にしました。翌1620年(元和6年)からは、2代将軍、徳川秀忠によって豊臣色を払拭する大坂城の再築工事が開始されました。大坂城再築工事は主に西国大名を中心に1620年(元和6年)からの第一期工事では47大名を動員して西の丸、二の丸北部・東部、三の丸が、1624年(元和10年)からの第二期工事では58大名を動員して本丸一帯を、1628年(寛永5年)からの第三期工事では57大名が動員されて二の丸南部、と実に3期、足かけ9年にわたる普請によって1629年(寛永6年)に完成しました。(徳川大坂城)
江戸末期、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に発せられた王政復古の大号令の後、二条城から追われた前将軍、徳川慶喜が大坂城に移り、居城していました。しかし、慶応4年1月3日(1868年1月27日)、旧幕府軍の鳥羽・伏見の戦いでの敗北によって徳川慶喜は船で江戸へ退却し、大坂城は新政府軍に開け渡されました。この前後の混乱で出火し、本丸御殿、本丸の三重櫓11基、桜門、姫門など本丸の全ての門、山里曲輪の極楽橋、二の丸の艮櫓、巽櫓、四番櫓、五番櫓、太鼓櫓、七番櫓など、城内の建造物のほとんどが焼失してしまいました。
明治新政府は城内の敷地を陸軍用地に転用しました。東側の国鉄城東線(現在の大阪環状線)までの広大な敷地に主に火砲、車両などの重兵器を生産する大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)が設けられました。1888年(明治21年)には大阪鎮台によって本丸桜門が復元されました。その後、大正時代には大阪城周辺の公園整備計画が持ち上がり、1928年(昭和3年)には当時の大阪市長、關一が天守再建を含む大阪城公園整備事業を提案しました。この提案は昭和天皇の即位記念事業として整備が進められ、市民から集められた募金150万円で陸軍第4師団司令部庁舎と復興天守の建設がすすめられました。天守閣の基本設計は波江悌夫氏が行い、徳川時代の天守台に豊臣時代のデザインを模した天守閣を鉄骨鉄筋コンクリート工法で再建することになりました。再建工事は1930年(昭和5年)に始まり、翌1931年(昭和6年)に完成しました。天守閣は5層8階建て、高さは約55mです。1931年(昭和6年)11月7日、復興天守は博物館「天守閣郷土歴史館」として開館し、大阪城公園も開園しました。
しかし、1945年(昭和20年)8月14日、第8回大阪大空襲によって大坂城は大きな被害を受けてしまいました。1868年(慶応4年)の火災の被害を免れていた二番櫓、三番櫓、坤櫓、伏見櫓、京橋門、京橋口多聞櫓などが焼失し、青屋門が甚大な被害を受けました。ただし天守閣は、天守台が損傷したものの破壊を免れました。
戦後、傷んだ櫓や空襲で崩れた石垣をはじめとして補修が行われました。現在、江戸時代初期から後期にかけて建てられた櫓や門、蔵など建物13棟および内堀と外堀が残っています。城跡は710,000平方メートルの範囲が国の特別史跡に指定されています。









・筋鉄門跡(すじがねもんあと)
1620年(元和6年)に開始された徳川幕府による大坂城再築工事で北外曲輪(きたのそとくるわ、三の丸)が築かれました。筋鉄門(すじがねもん)は、その西の入口で、門扉は筋状の鉄板で補強されていました。門は明治維新後も残り、北曲輪後に設置された軍事工場(大阪砲兵工廠)の正門とされましたが、現在は左右の石組だけが残っています。



・桜門
桜門は、天守閣の真南に位置する本丸への正門です。大坂城が建てられた当時、このあたりに桜並木があったため、桜門と名付けられたそうです。1868年、戊辰の役(ぼしんのえき)で焼失しましたが、1887年(明治20年)、陸軍によって徳川時代の様式のままに復元されました。国の重要文化財に指定されています。

・桜門枡形の巨石
桜門の内側には本丸の正面入口を守るため、石垣で四角く囲まれた「枡形」と呼ばれる区画が設けられ、上部に多聞櫓(たもんやぐら)が建てられていました。現在の枡形は、徳川幕府による大坂城再築工事の第2期工事が始まった1624年(寛永元年)、備前岡山藩主、池田忠雄によって築かれました。


・蛸石
大坂城の石垣に使われている石の中で、最も大きいのが「蛸石」です。縦5.5m、横11.7m、厚さは約75cmとされ、重さ108トン、表面積は36畳(59.43平方メートル)とされています。向かって左下の石の表面にタコの形に似たシミがあることから、蛸石と呼ばれています。

・肥後石
城内第2位の表面積は33畳、54.17平方メートルとされています。かつては加藤清正が運んだといわれていたので肥後石と呼ばれていましたが、実際には岡山藩主、池田忠雄が築いているので、名前がおかしなことになっています。石の下部には、石を安定させるために鉄製のくさびが打ち込まれています。

・号砲

・大阪城、大阪城公園(大坂城)
住所:大阪府大阪市中央区大阪城1-1
電話:06-6941-3044
営業時間:9:00〜17:00(天守閣)
定休日:12月28日から翌年1月1日
料金:600円(天守閣)
駐車場:有
アクセス:地下鉄、天満橋駅、谷町四丁目駅、森ノ宮駅より徒歩約15分
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