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更新日:
2018年6月26日
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◎異人館街(北野異人館街)(2018年6月11日)
神戸市中央区北野町の界隈には、明治から昭和初期にかけて外国人が居住するために建てられた洋館が数多く残っています。その異国情緒溢れる街並みから「北野異人館街」と呼ばれるようになり、現在では観光地として繁栄しています。
異人館街は神戸に限らず、明治初期に開港した長崎、横浜や函館にもありましたが、既に多くが失われてしまっています。神戸北野にある異人館街は、1945年(昭和20年)の神戸大空襲をまぬがれただけでなく、1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災も耐えて現存している貴重なものです。
異人館街の歴史を遡ると、江戸幕府末期が発祥です。1868年1月1日(慶応3年12月7日)に神戸港が開港した後、神戸の街には多くの外国人が流入してきました。そこで海側に外国人の居留地を設け、その場所で外国人が生活を始めました。しかし人が増えるにつれ、居留地は手狭になっていきました。そこで、より山側の北野エリアを雑居地という、居留地外でも外国人が日本人から土地や家屋を借りることを認める場所にしました。その結果、海を見下ろすことができる山麓地帯である北野に多くの外国人が居を構えるようになりました。
明治時代から昭和初期にかけて、200棟以上もの家屋が建てられました。異人館の建築様式は「コロニアルスタイル」と呼ばれるスタイルに集中しており、神戸の異人館ではベランダ、下見板張りペンキ塗りの外壁、ベイ・ウィンドゥ(張り出し窓)、よろい戸、赤レンガ化粧積み煙突などが特徴になっています。
1939年(昭和14年)に第二次世界大戦が勃発し、1941年(昭和16年)には太平洋戦争に突入していきました。その結果、永く神戸に住んでいた在留外国人の国外退去や母国への帰国が行われ、北野界隈をはじめ、神戸の山手の外国人と共生してきた環境は大きく変化しました。また、この戦争での空襲によって多くの異人館が焼失することになりました。かろうじて戦災を免れたのは、山本通から北側の山際に至る細長い北野町1丁目から4丁目までのベルト状の一帯だったそうです。
戦後、1960年(昭和35年)頃までは200棟近い異人館が点在していたそうですが、1960〜1970年代の高度成長期以降、次第にビルやマンションへの建て替えが進み、異人館街の破壊が進んでいったそうです。
その後、1975年頃から女性向け雑誌が神戸異人館の特集を組み、紹介をするようになったそうです。さらに1977年に放送されたNHKの連続テレビ小説「風見鶏の館」によって人気が沸騰し、異人館の存在が広く知られるようになりました。そのため、それまでは閑静な住宅地であった北野町界隈は一躍、観光地として賑わうようになったそうです。
これにともない、老朽化が進んでいた異人館の保存、活用が本格化していったそうです。周辺の道路に愛称を公募し、北野坂、ハンター坂、不動坂、北野通りなどの名前が付けられました。これがきっかけとなり街路整備や異人館、景観の保全活動が活発になり、神戸市が風見鶏の館や萌黄(もえぎ)の館を借り上げて公開するようになりました。
1980年(昭和55年)には文化財保護法による伝統的建造物群保存地区の指定を受け、保存、修理に取り組むようになりました。さらには遊歩道の整備、シティループの運行など、建物だけでなく、街全体の観光地化が進んでいきました。
1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神・淡路大震災によって異人館も大きな被害を受けましたが、残された30棟あまりの建物は全国から駆けつけた自治体、大学、研究機関、ボランティアの方々の支援によって速やかに修復作業が進められ、観光地としての異人館は復興を遂げました。
現在の異人館街は観光地として、年々、姿を変えています。もちろん洋館は変わりませんが、付近にある御洒落なブティック、レストラン、カフェ、土産物屋のほか、異人館やレストランでの結婚式や披露宴が観光とセットになって人気を呼ぶなど、より遠方からのカップル、観光客も多いようです。古き良き時代を感じながら、新しい文化を作っていくのが、神戸の北野異人館街ということなのかもしれません。





・イタリア館(プラトン装飾美術館、旧アーボイ邸)
1910年代、大正の初期にアーボイ氏の邸宅として建てられた切妻屋根が特徴的な歴史的建造物です。明治中期から後期に主流となったコロニアル様式の建物とは異なり、ハーフ・ティンバー様式の建築技法をとり入れています。先端を三角に尖らせた板塀も特徴的です。現在はイタリア関係の美術品や家具などを展示しているプラトン装飾美術館として一般公開されています。装飾性の高い18世紀から19世紀のヨーロピアン・アンティークの家具、調度品、絵画、彫刻を見学することができます。館の南側にある洋式庭園には、プールがあり、プールサイドではカフェやランチが楽しめます。


・英国館(旧フデセック邸)
1907年(明治40年)、イギリス人医師、フデセック氏の邸宅としてイギリス人建築家の設計で建てられたコロニアル様式のバルコニーが特徴の洋館です。建物は当時のまま保存されており、東西の壁面にはベイ・ウィンドゥ(張り出し窓)が設けられています。現在は「英国館」として公開されています。2Fには世界で最も有名な英国人、シャーロック・ホームズの部屋が再現されています。ホームズのトレードマークとも言えるインヴィネスケープやディアストーカーを着用したまま館内をめぐることができ、記念撮影が楽しめます。

・オーストリアの家(ウィーン・オーストリアの家、旧W. クンツェ邸)
作曲家モーツアルトをテーマにして、オーストリアの文化の紹介とモーツアルトにまつわる品々を展示紹介しています。館内は18〜19世紀の貴族の家を再現しており、モーツアルトが作曲に使用したピアノの複製品(フォルテ・ピアノ)、直筆の楽譜(複製)や手紙などを展示しています。

・オランダ館(香りの家、旧ヴォルヒン邸)
大正中期に建てられた2階建て、木造の寄棟造りです。長期間、オランダ総領事邸として使用され、その後、I. S. ヴォルヒン氏の邸宅となっていました。1987年1月に「香りの家 オランダ館」として開館し、一般公開されました。オランダのヴォーレンダム地方の民族衣装を着て記念撮影することが出来ます。また、年齢、星座、好きな音楽、花、果物などのデータから個人個人の個性にあったオリジナル香水を作ることもできます。


・風見鶏の館(旧トーマス住宅)
鮮やかな赤レンガ造りの外観、柱や梁を露出させた2階部分、屋根の上の風見鶏などが特徴的で、他の異人館とひと味違う重厚な雰囲気があります。1904年(明治37年)にドイツの貿易商、ゴッドフリート・トーマス氏の邸宅として建てられました。建物の設計に当ったのは、ドイツ人の建築家、ゲオルグ・デ・ラランデ氏です。レンガの外壁と尖塔の風見鶏は、北野異人館のシンボルとして人々に愛されています。1983年(昭和58年)12月から1985年(昭和60年)3月にかけて本格的な保存修理が行われ、可能な限り当時の姿になっています。現在は国の重要文化財に指定されています。







・北野町広場
風見鶏の館のすぐ南側にある広場です。ベンチが用意されていて、散策に疲れたら、のんびりと休める公園です。広場の横には観光案内所があり、トイレもありますので安心です。神戸は日本のJAZZ発祥の地ということで、ジャズを演奏する銅像が公園内に置かれています。

・神戸北野美術館(ホワイトハウス)
北野通りに面する石垣上に1898年(明治31年)に建設された異人館で、戦後、1978年(昭和53年)までアメリカ領事館官舎として使用されていました。その後、公開異人館「ホワイトハウス」として一般公開され、アール・ヌーボーのガラス美術品を展示していました。その後、1996年(平成8年)11月に神戸北野美術館としてリニューアルオープンしました。

・神戸バプテスト教会
異人館通り(山本通り)に面して建っている教会です。外壁がクリーム色で、赤いとんがり屋根が目印の教会です。神戸バプテスト教会は、1950年(昭和25年)8月4日に米国南部のバプテスト連盟からR. C. シェラー宣教師一家が神戸に来たことが始まりです。1950年(昭和25年)8月20日に初めて行われた礼拝には大人42名、教会学校には子ども36名が出席したそうです。1952年(昭和27年)3月にクリスチャンの洋画家である小磯良平宅跡地を譲り受け、米国南部コロニアルスタイルの教会堂が建てられました。

・サッスーン邸
1892年(明治25年)に建てられた木造二階建て寄棟造りの建物です。外観は典型的なコロニアル様式で、建物の南側に広大な庭園があります。1985年(昭和60年)までユダヤ系シリア人の貿易商、デヴィッド・サッスーン氏(1910年〜1991年)が居住していました。このため、旧サッスーン邸と呼ばれています。現在、一般公開はされておらず、チャペル挙式、ガーデン挙式ができる結婚式場として利用されています。

・松蔭女子学院発祥の地の碑
「松蔭女子学院」は、現在の「神戸松蔭女子学院大学」の前身で、1892年(明治25年)1月に英国聖公会によるミッションスクールとして神戸市北野町に「松蔭女学校」として設立されました。当時の授業内容は英語と洋裁が中心だったそうです。1915年(大正4年)に「松蔭高等女学校」に、1947年(昭和22年)には「松蔭女子専門学校」に改称されました。
1950年(昭和25年)3月、学制改革によって「松蔭短期大学」となり、キリスト教科、英文学科が置かれました。その後1966年(昭和41年)4月、垂水に「松蔭女子学院大学」が新設され、1974年(昭和49年)に「松蔭短期大学」は「松蔭女子学院短期大学」と改称されました。1980年(昭和55年)に現在地(神戸市灘区篠原伯母野山町)に新校舎を建設し、移転しました。1995年(平成7年)4月、大学は「神戸松蔭女子学院大学」、短期大学は「神戸松蔭女子学院短期大学」と改名、2000年(平成12年)には大学院を開設し、現在に至っています。北野の地には、「松蔭女子学院発祥の地」という碑が建てられています。「松蔭」という名称は、謹み深さと貞節を表わす松の木蔭に学ぶ乙女たちをイメージしたものであると言われているそうです。

・デンマークハウス(旧ヨハン・フラウベルト邸跡)
デンマーク館は、旧ヨハン・フラウベルト邸跡地に1992年(平成4年)7月19日に建てられた鉄筋2階建てのテーマ館です。バイキングや童謡作家、アンデルセンなど、デンマークの歴史や文化を紹介するミュージアムとして、デンマーク王国大使館とデンマーク通商事務所の後援を受けてオープンしました。1階には高さ6m、長さ6mという本物の2分の1サイズのバイキング船のレプリカが展示されています。2階には童話作家アンデルセンの書斎が再現されており、愛用品などが展示されています。

・ベンの家(旧フェレ邸)
1902年(明治35年)に北野ではなく、居留地に商館として建築されたそうです。その後、現地に移され、イギリス人貴族、冒険家でもあり、狩猟家のベン・アリソン(Ben Allison)氏の邸宅となりました。木造2階建て、寄棟造り、桟瓦葺きの洋館で、外壁は神戸異人館の特徴でもある「下見板張り」だったそうですが、後にモルタル掻き落とし仕上げが施されたそうです。赤レンガの塀は、創建当時、ドイツから取り寄せた煉瓦だそうです。
館内にはベン・アリソンが射止めた動物の剥製が展示されています。ポーラーベアと呼ばれる3mのホッキョクグマ、白オオカミ、オオワシ、白頭鷲、マレー虎、ヒョウ、リンクスなど、現在は絶滅危惧種になっている動物の剥製もあります。また、蝶の標本や動物をモチーフにしたステンドグラスなどもあります。


・洋館長屋(旧ボシー邸、仏蘭西館)
1908年(明治41年)に居留地に外国人向けアパートとして建設されました。左右対称の2棟が中央で連結し、連結部の階段の左右に入口が設けられています。寄棟屋根に下見板張り、白いオイルペンキ塗りの外壁は当時の代表的な洋館様式です。後に現在の北野に移築され、一風変わった外観が日本の長屋のようであることから「洋館長屋」と呼ばれるようになったそうです。
現在は「仏蘭西館」として公開されています。邸内にはフランス美術品、豪華な調度品を中心に、アール・ヌーボーのガラス工芸家、エミール・ガレやドーム兄弟、ルネ・ラリックらの作品やパリ期の藤田嗣治氏らの絵画などを展示しています。



・ラインの館(旧ドレウェル邸)
1915年(大正4年)に建築された木造2階建、下見板張りオイルペンキ塗りで、開放されたベランダ、ベイ・ウィンドゥ(張り出し窓)、軒蛇腹、よろい戸など、明治時代の異人館の様式を受け継いでいます。建物は主屋と付属屋からなり、主屋は庭のほぼ中央に南面して建ち、1階の開放されたベランダは、その特徴をよく残しています。ベイ・ウィンドゥ(張り出し窓)は東側に1つ、西側に2つあり、1階は応接間、居間、食堂、2階は寝室が配置されています。
建築主はJ. R. ドレウェル夫人(Josephine R. Drewell)です。1857年フランスで生まれ、1871年(明治4年)に来日して、1876年(明治9年)、当時大阪造幣寮の御雇外国人であったイタリア人マンチーニ氏と結婚しました。1880年(明治13年)にマンチーニ氏が死亡した後、1882年(明治15年)にドレウェル氏と再婚しました。館を建築した時、ドレウェル夫人は58歳で、1920年(大正9年)に亡くなるまでこの館で暮らしていました。ドレウェル夫人の死後、この館にはドイツ人が住んでいました。
1978年(昭和53年)に神戸市が購入した際、付属屋は一部改造して市民トイレを設け、地区内の案内センターとして整備しました。この時、この館の愛称を公募した結果、「ラインの館」という名称になりました。「ラインの館」とは「この館の下見板の横線(ライン)が美しい」ことから名付けたそうです。
・異人館街
住所:兵庫県神戸市中央区北野町
アクセス:JR、三宮駅から徒歩約15分
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