千姫天満宮

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更新日:
 2021年9月26日




◎千姫天満宮(2021年4月11日)
 千姫天満宮(せんひめてんまんぐう)は、兵庫県姫路市山野井町にある神社です。姫路城の北西、直線距離で500m程度の場所にある男山の中腹に鎮座しています。1623年(元和9年)3月、千姫によって創建されたとされています。池田輝政の時代(1600年頃)には既に社があった可能性が高いとされていますが、千姫によって新築あるいは建て直されたのは間違いないものと思います。
 「千姫(せんひめ)」は後の徳川二代将軍、徳川秀忠と正室、お江の長女として1597年(慶長2年)4月11日に伏見城内の徳川屋敷で産まれた女性です。当時は、まだ徳川の天下ではありません。豊臣秀吉が亡くなるのが翌1598年(慶長3年)8月18日ですので、豊臣秀吉の天下で朝鮮出兵もしている時代です。
 時代背景を振り返ると、1591年(天正19年)、後継者に指名していた鶴松が病死したため、豊臣秀吉は秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男である、甥の秀次を養子とし、さらに関白職を譲りました。ところが1593年(文禄2年)8月3日に側室の淀殿が秀頼(拾丸:ひろいまる)を産みました。すると1595年(文禄4年)6月、秀次に謀反の疑いが持ち上がり、7月15日に切腹させられました。
 その後、1598年(慶長3年)5月頃から病に伏せるようになった豊臣秀吉は、7月4日に居城である伏見城に徳川家康ら諸大名を呼び寄せて、家康に対して秀頼の後見人になるように依頼しました。さらに8月5日、秀吉は五大老宛てに2度目の遺言書を記しました。この時、千姫を秀頼と結婚させるよう徳川家康に依頼、婚約させたようです。当時、豊臣秀頼は6歳、千姫は2歳です。徳川家康に後を頼んだ豊臣秀吉は、8月18日に亡くなりました。
 1600年(慶長5年)9月15日、美濃国、関ヶ原での合戦で勝利した徳川家康は、1603年(慶長8年)2月12日、後陽成天皇から征夷大将軍、右大臣、源氏長者、淳和奨学両院別当に任命されました。この流れに豊臣秀頼の立場を保ちたい豊臣秀頼の母、淀殿の働きもあり、7月、豊臣秀頼と千姫は結婚しました。この時、秀頼は11才、千姫は7才です。結婚により千姫は大久保忠隣(ただちか)に伴われ、乳母、刑部卿局とともに伏見城から大坂城に移りました。秀頼と千姫の間には子供ができなかったものの、仲は良かったとされています。
 1614年(慶長19年)の大坂冬の陣、翌1615年(慶長20年)の大坂夏の陣によって徳川家康は豊臣家を滅亡させようとしました。この間、千姫は夫、豊臣秀頼と淀殿の助命を懇願していたようですが、その願いは聞き入れられませんでした。
 1615年(慶長20年)5月7日深夜、大阪城が炎上する中、千姫は豊臣秀頼や淀殿らと自刃するつもりだったようですが、大野治長から助命嘆願の依頼を受けると、僅かな望みに掛けて、侍女、松坂の局や堀内氏久らと大坂城を脱すると、混乱する戦場で徳川勢に捕まったものの、衣に描かれていた「葵の紋」から千姫だと信用され、徳川家康の本陣(茶臼山)に届けられたそうです。家康は孫娘、千姫の無事を大いに喜んだそうです。
 この時、徳川家康の元へ送ったのが坂崎直盛(さかざきなおもり)だとされています。坂崎直盛は出羽守(現在の山形県と秋田県の長官)で、宇喜多秀家の従兄弟です。元々は宇喜多姓を名乗っていましたが、関ヶ原の戦いから徳川家康に仕えて坂崎姓を名乗り、石見国津和野(現在の島根県浜田市)、3万石を賜った人物です。徳川家康から千姫を救出するよう命じられたとも、その褒美として千姫との結婚を約束されたとも言われていますが、その一方で、坂崎直盛だけに命じたものではなく、千姫を救出した人と結婚させるとの話だったとか、京都の公家に顔が広い坂崎直盛に千姫の再嫁先を探してほしいと頼んでいただけなど、色々な説があり、どれが真実か分かりません。
 翌5月8日、淀殿と豊臣秀頼は自害し、豊臣家は滅亡しました。豊臣秀頼の側室が産んでいた豊臣国松と奈阿姫は京に潜伏していましたが、京極忠高に捕縛され、国松は5月23日に田中六郎左衛門、長宗我部盛親と共に六条河原で斬首となりました。一方、7歳の奈阿姫(天秀尼)は、お初(常高院)や千姫による助命嘆願により、千姫の養女となって寺に入ることで命を助けられ、鎌倉の東慶寺に入りました。
 千姫は、坂崎直盛との結婚話、公家との結婚話を断ったそうです。坂崎直盛との結婚を拒否した理由として、助けて貰った時に坂崎直盛が負った傷(あるいは火傷)を見て気持ち悪かったという説があるようですが、信ぴょう性が低いようです。ただ、19歳の千姫に対し、坂崎直盛は52歳くらいのはずです。23歳で背が高く美青年だったとされる豊臣秀頼の妻だった人が、そんな人を選ぶとは思えません。断るのは当たり前でしょう。また、公家との結婚話があったとしても、長年連れ添った夫が殺された後のことです。普通は、そんな気持ちにならないと思います。
 戦いが終わり、千姫は大阪から江戸に移されます。この途中、桑名の七里渡しの船中で偶然、本多忠刻(ほんだただとき)を見初め、一目惚れし、本多忠刻と結婚したいと徳川家康に頼んだという説があります。本多忠刻は眉目秀麗で優雅さを持ち、誰もが振り返るほどの美男子だったとされています。この時、本多忠刻は20歳ですから、豊臣秀頼の次としては十分だと思います。この話が事実かどうかは分かりませんが、翌1616年(元和2年)、千姫は桑名藩主、本多忠政の嫡男、本多忠刻と結婚しました。
 ただ、千姫は豊臣家から離縁された訳ではありません。そこで徳川家康は千姫を豊臣家と離縁させるため、形式的に満徳寺(群馬県太田市尾島)に入れ、短期間、尼とさせることで豊臣家との縁を絶たせました。その後、侍女が千姫の名代として満徳寺の尼となり、生涯を終えています。
 1616年(元和2年)4月、徳川家康は千姫の婚礼を待たずにこの世を去りましたが、9月26日に千姫は桑名城に到着し、9月29日に10万石の桑名藩主、本多忠政の嫡男、本多忠刻と結婚しました。この時、10万石の化粧料を与えられたといわれるそうです。
 翌1617年(元和3年)7月14日、本多忠政に姫路藩15万石が与えられました。千姫は、8月28日に桑名を発って姫路城に移りました。千姫が姫路城に入る際には、馬500頭と供850人が付き従ったそうです。
 ただ、この時、本多忠刻はまだ家督を継いでおらず、城主ではありませんでした。このため、姫路城には千姫と本多忠刻専用の武蔵野御殿と、西の丸を整備した化粧櫓が新たに建てられ、新居とされました。武蔵野御殿は伏見城から移築したもので、壁や襖には金箔がはられ、見事な武蔵野のススキが描かれていたため「武蔵野御殿」と呼ばれたとそうです。
 領民から「播磨姫君」と称されて敬愛された千姫は、1618年(元和4年)、22歳の時、初めての子、本多勝姫を産みました。1619年(元和5年)には長男、幸千代(こうちよ)が生まれましたが、1621年(元和7年)に亡くなってしまいました。悲しみに暮れた千姫は、その後、妊娠しても流産するということを繰り返すようになったそうです。
 千姫は天満天自在天神(てんまんてんじざいてんじん)を信仰し、平安中期の僧、天台座主13世の専意(そんい)作の天神木造を守護神として姫路城内に祀っていたそうですが、1623年(元和9年)3月、これを祭神とする天神社を男山に創建しました。もともと、この地には池田輝政の頃には既に社があったという説もあるようですが、新設でなかったとしても、建て直したのは間違いないものと思われます。
 この天満宮は東向きに造営されており、千姫が生活していた姫路城西の丸から拝礼出来るようになっています。千姫は毎朝、長局の廊下から拝礼し、本多家の繁栄を祈願していたそうです。また、千姫が魔よけとして持っていた6枚の羽子板が奉納されました。千姫はこの他、金泥法華経、観音経、唐鏡、羽子板、茶碗、帯など身の回りの品を寄進したそうです。観音経は春日局がお守りにしていたものを千姫に与えたものといわれているそうです。
 その後、千姫が頼った占いで、豊臣秀頼が恨んで千姫を祟っているとされ、千姫は豊臣秀頼に許しを請う願文を書いて、観音像の中に入れ奉納したそうです。しかし千姫の祈りも届かず、1626年(寛永3年)、参勤交代から帰った夫、本多忠刻が結核で31歳の若さで病死してしまいました。本当かどうか、亡くなった日付は、奇しくも大坂落が落城した日と同じ5月7日だそうです。
 さらに1626年(寛永3年)6月25日には姑、熊姫(妙高院)が享年50歳で、9月15日には母、お江(崇源院)が享年54歳で亡くなりました。播磨は本多忠刻の弟、本多政朝が継ぐことになったため、弟の3代将軍、徳川家光の勧めもあり、30歳の千姫は11月に勝姫を連れて江戸に移動、江戸城、西ノ丸に入りました。
 千姫天満宮は、千姫が姫路を離れた後も地元の人々によって大切にされてきたものと思います。2002年(平成14年)4月には社殿が新築されました。















・千姫天満宮(せんひめてんまんぐう)
 住所:兵庫県姫路市山野井町1-3
 定休日:無
 料金:無
 アクセス:JR、姫路駅より車で約10分