平城宮跡

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更新日:
 2021年4月26日




◎平城宮跡(2019年4月11日)
 710年(和銅3年)3月10日、飛鳥に近い藤原京から、奈良盆地北部の地に都が移されました。いわゆる平城京です。大路小路が碁盤目状に通された平城京の人口は10万人とも20万人とも言われているそうです。
 平城宮は、その平城京の中央北端に造営された宮城で東西1.3km、南北1km、面積120haの広さがありました。外周を築地大垣で囲んだ内部には、国の政治や儀式をとりおこなう大極殿(だいごくでん)、朝堂院(ちょうどういん)、天皇の居所である内裏(だいり)、行政機関である様々な役所、宴会をもよおす庭園などの施設がありました。
 しかし、784年(延暦3年)に都が長岡京に、さらに794年(延暦13年)に平安京に移ると、平城京の施設は廃れていきました。これらは全て木造建築だったため、地上の構造物は失われてしまいましたが、地下の遺構は良好な状態で保存されていました。1955年から発掘調査がはじめられ、その成果にもとづいて、1998年に朱雀門と東院庭園、2010年に第一次大極殿が復元されるなど、遺跡博物館としての整備も同時にすすめられています。
 平城宮跡は、日本の律令国家が形成された奈良時代の政治、文化の中心として、多くの重要な遺構が確認されており、学術上きわめて価値の高い文化財として、1952年(昭和27年)に特別史跡に指定され、1998年(平成10年)には「古都奈良の文化財」の構成資産の一つとして世界遺産に登録されました。

・第一次大極殿
 朱雀門の真北約800mに建てられていた「大極殿(だいごくでん)」は正面約44m、側面約20m、地面からの高さ約27mという大きさです。直径70cmの朱色の柱が44本、屋根瓦約9万7000枚を使った平城宮最大の宮殿であり、その建物は奈良時代の中頃に、一時都とした恭仁(くに)宮に移築され、山城国の国分寺金堂になりました。当時、天皇の即位式や外国使節との面会など、国の最も重要な儀式のために使われていたと考えられています。
 「大極(対極)」とは宇宙の根源のことで、古代中国の天文思想では北極星を意味しています。大極殿は、715年(和銅8年)には完成していたと考えられています。
 大極殿を製作した当時の設計図や参考になるような絵画などが残っていないため、発掘調査で判明した基壇や恭仁宮の大極殿(国分寺金堂)の跡に残る礎石の状態などから大極殿の大きさ、形を推定して建設されました。わずかに残る文献や法隆寺金堂、薬師寺東塔など、同時代の寺院建築も参考にされています。

















 第一次大極殿から朱雀門を望む





・朱雀門
 平城京の入口の羅生門から、74mもの幅をもつ朱雀大路がまっすぐ北に延び、その4km先には平城宮の正門である朱雀門がありました。長年の調査と研究により、1998年(平成10年)、平城宮跡(世界遺産)に復原されました。東西約25m、南北約10m、高さ約20m、朱色に塗られた入母屋二層構造です。















・復元 遣唐使船



・井戸
 内裏東端部で見つかった井戸は、直径1.7mの杉の木をくり抜いた井筒を据え、周りに切り石や玉石を敷き詰められていました。









・朱雀門ひろば
 住所:奈良県奈良市二条大路南3-2-14