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更新日:
2019年4月26日
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◎興福寺(こうふくじ)(2019年4月22日)
興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある法相宗の大本山として知られる寺院です。もともとは、中臣鎌足夫人の鏡大王(かがみのおおきみ)が夫、中臣鎌足の病気平癒を願って、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)に山背国(やましろのくに)山階(やましな、現、京都府京都市山科区)で創建した山階寺(やましなでら)が起源です。
中臣鎌足は皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、中大兄皇子(後の天智天皇)、石川麻呂らと協力して飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)にて、当時政権を握っていた蘇我入鹿を暗殺し、入鹿の父の蘇我蝦夷を自殺に追いやった(乙巳の変(いっしのへん))ことで知られています。その後、中大兄皇子の側近として、大化の改新と呼ばれる改革に尽力していきました。天智天皇6年(667年)3月、天智天皇は飛鳥から近江に遷都しました。その後、中臣鎌足は669年(天智天皇8年)10月、山科の御猟場に狩りに行った際、馬上から転落して背中を強打し、寝込みました。669年11月13日(天智天皇8年10月15日)、天智天皇から大織冠を授けられ、内大臣に任ぜられ、「藤原」の姓を賜りましたが、翌日、56歳で人生を終えました。
弘文天皇元年(672年)、壬申の乱で勝利した大海人皇子は、翌天武天皇2年(673年)2月、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや、奈良県高市郡明日香村岡)を造って即位し、天武天皇となりました。天武天皇は、代変わりごとに宮を移す旧慣を改め、永続的な都を建設する抱負を持って適地を探しました。天武天皇5年(676年)に「新城(にいき)」の選定に着手し、天武天皇13年(684年)3月9日に宮室の地を定め、藤原京の造営を始めました。
天武天皇14年(685年)頃から天武天皇は病気がちになり、皇后が代わって統治者としての存在感を高めていき、翌天武天皇15年(686年)5月24日には伏せるようになり、仏教の効験によって快癒を願ったものの効果はなく、7月15日に政治を皇后と皇太子に委ねました。7月20日に元号を朱鳥(しゅちょう、すちょう、あかみとり)とし、その後も神仏に祈らせたものの、9月11日に病死しました。後を継いだ持統天皇が造営工事を引き継ぎ、持統天皇8年(694年)に飛鳥浄御原宮(倭京)から宮を遷し、藤原京(奈良県橿原市と明日香村にかかる地域)と呼ばれるようになりました。これに伴い、山階寺も明日香(奈良県高市郡明日香村)に移され、地名の高市郡厩坂(うまやさか)から「厩坂寺(うまやさかでら)」と呼ばれるようになりました。
その後、元明天皇(げんめいてんのう)によって和銅3年3月10日(710年4月13日)に藤原京から平城京に遷都すると、藤原(中臣)鎌足の息子で当時の権力者だった藤原不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し、「興福寺」と名付けました。この710年が実質的な興福寺の創建年です。
その後、天皇や皇后、藤原氏によって北円堂、東金堂、五重塔などが建てられ、伽藍の整備が進められました。藤原不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、もともと藤原氏の私寺であった興福寺の造営が国家の手で進められるようになりました。天平10年(738年)3月28日には朝廷から興福寺に食封千戸が施入されています。
平安時代末期、治承4年(1180年)に平氏による南都焼討ちによって、ほとんどの建物が焼失しました。その後、復興し、多くの僧兵を擁して大和一国を支配する勢力を持ちました。そのため鎌倉時代、室町時代には幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任に当たりました。文禄4年(1595年)の検地で春日社興福寺合体の知行として2万1千余石と定められ、徳川政権下においてもその面目は保たれました。その後、明治時代はじめの神仏分離令、廃仏毀釈、社寺上地令などで興福寺は荒れましたが、その後は寺僧有縁の人々の努力で復興され、現在に至ります。
・東金堂(とうこんどう)(国宝)
中金堂(ちゅうこんどう)の東にある金堂で、西向きの建物です。神亀3年(726年)に聖武(しょうむ)天皇が叔母元正(げんしょう)太上天皇の病気全快を願って建てました。創建当初は床に緑色のタイルが敷かれ、薬師如来(やくしにょらい)の浄瑠璃光(じょうるりこう)世界がこの世にあらわされていました。以来6度の被災、再建を繰り返し、現在の建物は応永22年(1415年)に再建されたものです。
正面7間(25.6m)、側面4間(14.1m)、寄棟(よせむね)造り、本瓦(ほんがわら)葺きの建物で、前面を吹放(ふきはなし)とし、木割(きわり)が太く、奈良時代の雰囲気を伝えます。堂内には本尊薬師如来像、日光・月光菩薩像、文殊菩薩像と維摩居士(ゆいまこじ)像、四天王像、十二神将像(以上いずれも国宝)が安置されています。

・北円堂(ほくえんどう)
北円堂は、伽藍で残る最古の建物です。日本に現存する八角円堂のうち、最も美しいと賞賛されるこの堂は、興福寺創建者、藤原不比等の一周忌にあたる養老5年(721年)8月に、元明(げんめい)太上天皇と元正(げんしょう)天皇が建てたものです。伽藍の中では西隅に位置しますが、ここは平城京を一望の下に見渡すことのできる一等地で、平城京造営の推進者であった不比等の霊をなぐさめる最良の場所です。
治承4年(1180年)の被災後、承元4年(1210年)頃に再建されました。八角の一面は4.9m、対面径は11.7m、本瓦(ほんがわら)葺きの建物です。鎌倉時代の建物であるにもかかわらず、奈良時代創建当初の姿をよく残しています。内陣(ないじん)は天蓋(てんがい)が輝き、組物間の小壁には笈形(おいがた)が彩色されています。
堂内には本尊弥勒如来(みろくにょらい)像(国宝)、法苑林(ほうおんりん)・大妙相菩薩(だいみょうそうぼさつ)像、無著(むじゃく)・世親菩薩(せしんぼさつ)像(国宝)、四天王(してんのう)像(国宝)が安置されています。

・南円堂(なんえんどう)(重要文化財)
弘仁4年(813年)に藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父、内麻呂(うちまろ)の冥福を願って建てた八角円堂です。基壇(きだん)築造の際に地神を鎮めるために、和同開珎(わどうかいちん)や隆平永宝(りゅうへいえいほう)をまきながら築き上げたことが発掘調査で明らかになりました。この儀式には弘法大師空海が深く係わったことが伝えられています。
興福寺は藤原氏の氏寺でしたが、藤原氏の中でも摂関家、北家の力が強くなり、その祖である内麻呂、冬嗣親子ゆかりの南円堂は、興福寺の中でも特殊な位置を占めます。その上、本尊不空羂索観音菩薩(ふくうけんさくかんのん)像が身にまとう鹿皮は、氏神春日社(かすがしゃ)との関係から、特に藤原氏の信仰を集めました。
創建以来4度目の建物で、寛政元年(1789年)頃に再建されました。八角の一面は6.4m、対面径は15.5m、本瓦(ほんがわら)葺きの建物ですが、その手法はきわめて古様です。
堂内には本尊不空羂索観音菩薩像、法相六祖坐像(ほっそうろくそざぞう)、四天王(してんのう)像(以上いずれも国宝)が安置されています。


・五重塔(ごじゅうのとう)(国宝)
古都奈良を象徴する塔です。塔は仏教の祖釈迦の舎利(しゃり)(遺骨)をおさめる墓標です。天平2年(730年)に興福寺の創建者、藤原不比等の娘、光明(こうみょう)皇后が建てました。初層の東に薬師浄土変(やくしじょうどへん)、南に釈迦浄土変(しゃかじょうどへん)、西に阿弥陀浄土変(あみだじょうどへん)、北に弥勒浄土変(みろくじょうどへん)を安置し、また各層に水晶の小塔と垢浄光陀羅尼経(くじょうこうだらにきょう)を安置していたと伝えられています。
その後、5回の被災、再建をへて、応永33年(1426年)頃に再建されました。高さ50.1m、初層は方三間で8.7m、本瓦(ほんがわら)葺きの塔です。京都の東寺の五重塔に次いで日本で2番目に高い塔です。軒の出が深く、奈良時代の特徴を随所に残していますが、中世的で豪快な手法も大胆に取り入れた力強い塔です。
初層の四方には、創建当初の伝統を受け継ぐ薬師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、弥勒三尊像が安置されています。

・三重塔(さんじゅうのとう)
康治2年(1143年)に崇徳(すとく)天皇の中宮(ちゅうぐう)が創建されましたが、治承4年(1180年)に被災し、間もなく再建されました。北円堂とともに興福寺最古の建物で、高さ19.1m、初層は方三間で4.8m、本瓦(ほんがわら)葺きです。鎌倉時代の建物ですが、木割が細く軽やかで優美な線をかもし出し、平安時代の建築様式を伝えています。
初層内部の四天柱(してんばしら)をX状に結ぶ板の東に薬師如来(やくしにょらい)像、南に釈迦如来(しゃかにょらい)像、西に阿弥陀如来(あみだにょらい)像、北に弥勒如来(みろくにょらい)像を各千体描き、さらに四天柱や長押(なげし)、外陣(げじん)の柱や扉、板壁には宝相華(ほうそうげ)文や楼閣(ろうかく)、仏や菩薩(ぼさつ)など浄土の景色、あるいは人物などを描いています。
東の須弥壇(しゅみだん)に弁才天(べんざいてん)像と十五童子像を安置し、毎年7月7日に弁才天供が行われます。
・仮講堂(かりこうどう)
中金堂は享保2年(1717年)の被災後は幕府、朝廷、また藤原氏からの支援、援助もかなわず、加えて寺自身も財源を欠き、再建が叶いませんでした。約100年後の文政2年(1819年)になって、ようやく奈良の一豪商と奈良町の人々の寄進によって、周囲1間を縮小した仮堂を建てることができました。本格的な建物を復元するには、資金が足りなかったので、とりあえず仮堂を建て、資金ができたあかつきに本格的な建物を復元する意図があったと考えられます。
用いられた部材の多くが松材で、また瓦の焼きも甘く、年月を経るにうちに荒廃が進んだため、昭和50年(1975年)に講堂跡に仮金堂が建てられました。この建物は不用になった薬師寺旧金堂(室町時代、正面9間(26.7m)、側面6間(15.6m)、寄棟(よせむね)造り、本瓦(ほんがわら)葺き)を移建したのもので、興福寺金堂としての役目を果たしました。文政期に建てられた仮堂は平成12年(2000年)に解体し、中金堂の再建工事が進められています。
中金堂が平成30年(2018年)に落慶を迎えるにあたって「仮金堂としての役目」が終わり、これより「講堂としての役目」を果たすべく、再興を進める予定です。「仮」講堂と称しているのはその準備という意味です。
・大湯屋(おおゆや)
寺院の風呂場です。奈良時代から設けられていたものの、文献での初見は平安時代です。その後、数回の被災、再建を経て、室町時代に再建されたのが現在の建物で、五重塔再建と同じ時期、応永33年(1426年)頃と考えられています。
正面4間(11.7m)、側面4間(10.6m)、本瓦(ほんがわら)葺きの建物で、西面の屋根は入母屋(いりもや)、東面の屋根は切妻(きりづま)ですので、東側になんらかの建物があり、この大湯屋で湯を沸かし、東の建物に湯を送って蒸し風呂にしたり、あるいは入浴したりしたと考えられています。
内部に床を敷かず、地面に直接鉄の湯釜を2個据えています。南の湯釜はほぼ完形で、口径1.5m、胴径1.86m、高さ1.27mで鎌倉時代、北の湯釜は口縁の部分しか残らないのですが、口径1.44mで平安時代のものです。
・本坊(ほんぼう)
興福寺の寺務をとる建物です。
表門は天正年間(1573年〜1592年)に建立された正面4.5m、側面2.6m、本瓦(ほんがわら)葺きの四脚門(しきゃくもん)。明治40年(1907年)に菩提院(ぼだいいん)北側築地の西方に構えられていた門を移築しました。
南客殿は同じ頃に増築された正面16.7m、側面10m、桟瓦(さんがわら)葺きの建物です。
北客殿は嘉永7年(1854年)に再建された正面20m、側面11m、桟瓦葺きの建物で、平安時代頃から僧侶が生活し、学問にはげんだ東室(ひがしむろ)という東西に長い僧房(そうぼう)の伝統を受け継いでいます。
北の持仏堂(じぶつどう)、大圓堂(だいえんどう)は明治時代の建物で、正面3間(7m)、側面3間(6m)、桟瓦葺きで、堂内に聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)像(重要文化財)を安置しています。
・菩提院大御堂(ぼだいいんおおみどう)
奈良市民には十三鐘(じゅうさんがね)、また稚児観音(ちごかんのん)や三作石子詰(さんさくいしこづめ)の伝承で、よく知られています。
奈良時代には、この付近一帯は仏に供える四季の花が植えられていました。また興福寺の法相宗(ほっそうしゅう)を中国から伝えた玄ム(げんぼう)僧正が住んでいたとも伝えます。
発掘調査の結果、このように大きな建物が建てられたのは鎌倉時代に入ってからであることが明らかになりました。
現在の建物は天正8年(1580年)の再建で、正面−間(17m)側面5間(14.2m)、本瓦(ほんかわら)葺きで、正面に向拝(ごはい)がつきます。
堂内には本尊阿弥陀如来(あみだにょらい)像(重要文化財)、不空羂索観音菩薩(ふくうけんさくかんのんぼさつ)像、稚児観音菩薩(ちごかんのんぼさつ)像が安置されています。
・興福寺(こうふくじ)
住所:奈良県奈良市登大路町48
電話:0742-22-7755
営業時間:9:00〜17:00
定休日:無
駐車場:有
アクセス:近畿日本鉄道、奈良駅から徒歩約5分
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