唐招提寺(とうしょうだいじ)

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更新日:
 2021年4月26日




◎唐招提寺(とうしょうだいじ)(2021年4月11日)
 唐招提寺は唐から来た僧、鑑真が759年(天平宝字3年)、新田部親王(にたべしんのう:天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものです。当初は「唐律招提」と称しました。「招提」は、サンスクリットの「チャートゥルディシャ・サンガ(「現前する僧だけでなく、全ての僧のための組織」を意味する)に由来する中国語で、「四方から僧たちが集まり住む所」という意味で名付けられたそうです。
 鑑真は688年(持統天皇2年)に唐の揚州、江陽県に生まれ、14歳で智満について得度し、18歳で道岸から菩薩戒を受け、20歳で長安に入り、21歳で弘景について登壇受具し、律宗、天台宗を学びました。律宗とは、仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え、研究する宗派です。鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者で、4万人以上の人々に授戒を行ったとされています。
 鑑真が揚州の大明寺の住職であった742年、日本から唐に渡った興福寺の栄叡(ようえい)と大安寺の普照(ふしょう)らから戒律を日本に伝えるよう懇請されました。当時、奈良には私度僧(自分で出家を宣言した僧侶)が多かったため、伝戒師(僧侶に位を与える人)制度を普及させようと、聖武天皇が適当な僧侶を捜していたそうです。栄叡と普照の要請を受けた鑑真は、渡日したい者はいないかと弟子に問いかけたものの、危険を冒してまで渡日を希望する者はいなかったそうです。そこで当時、既に55歳だった鑑真自ら渡日することを決意し、それを聞いた弟子21人も随行することになりました。日本への渡海を5回にわたり試みましたが、いずれも失敗しています。
 6回目、753年(天平勝宝5年)11月16日に出航し、753年(天平勝宝5年)12月7日、益救嶋(屋久島)に到着しました。12月18日に屋久島から大宰府を目指し出港し、12月20日に薩摩国の秋目(秋妻屋浦、鹿児島県南さつま市坊津町秋目)に漂着しました。その後12月26日に大安寺の延慶に迎えられながら大宰府に到着、翌754年(天平勝宝6年)2月4日に奈良、平城宮に到着しました。鑑真は既に66歳になっていました。
 平城京に到着した鑑真は聖武上皇の歓待を受け、孝謙天皇の勅によって戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住むことになりました。754年(天平勝宝6年)4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けました。これが日本の登壇授戒の嚆矢です。東大寺には戒壇院が建立されました。
 758年(天平宝字2年)、淳仁天皇の勅によって大和上に任じられ、また、政治にとらわれる労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされました。そして翌759年(天平宝字3年)、新田部親王の旧邸宅跡が与えられた鑑真は「唐律招提」を開き、戒律を学ぶ人々の修行の道場としました。当初は新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵などがあるだけだったようです。やがて鑑真和上を支持する人々から居室や宿舎を贈られ、倉庫、食堂、講義用の講堂、本尊を安置する仮金堂などが建てられていったそうです。ちなみに講堂は、平城宮の東朝集殿(ひがしちょうしゅうでん)を移築したものだそうです。
 鑑真は763年(天平宝字7年)5月、「唐律招提」で亡くなりました。76歳でした。鑑真の死後も伽藍の造営は続けられ、南大門、西南門、北土門、中門、金堂は鑑真の弟子でともに来日した如宝によって造営されました。食堂(じきどう)は藤原仲麻呂家の施入(寄進)、羂索堂(けんさくどう)は藤原清河家の施入だそうです。藤原清河は鑑真が渡日した際の遣唐使の大使でしたが、鑑真の乗った第二船と異なり、清河の乗った第一船は遭難して唐に戻され、彼は唐の地で没しました。「藤原清河家の施入」とは、清河の家の建物を移築した、もしくは、清河の家族が建築費を負担した、のいずれかだと考えられているそうです。金堂は8世紀後半に建立され、最も遅く建立された東塔は「日本紀略」に810年(弘仁元年)の建立とあるそうです。
 鑑真が「唐律招提」と名付けた道場が、いつ「唐招提寺」になったのでしょうか。唐招提寺には孝謙天皇の宸筆と伝えられている勅額が伝わっています。現在、唐招提寺の南大門に掲げられているものは複製品で、本物は新宝蔵に収蔵されています。759年(天平宝字3年)に鑑真が「唐律招提」を開いた時は淳仁天皇の時代でした。(孝謙天皇は758年(天平宝字2年)8月1日に淳仁天皇に譲位しています。)しかし、764年(天平宝字8年)10月9日に淳仁天皇を廃して大炊親王とし、孝謙天皇は重祚して称徳天皇(しょうとくてんのう)となりました。したがって、実施には称徳天皇の時代(764年11月6日(天平宝字8年10月9日)〜770年8月28日(神護景雲4年8月4日)に「唐招提寺」の勅額を賜ったのではないでしょうか。すなわち奈良時代後半、764年〜770年頃に「唐招提寺」の勅額を賜り、「唐招提寺」になったのではないでしょうか。
 平安時代中期以後、戒律護持が廃れ、唐招提寺も衰亡していきました。そんな中、鎌倉時代中頃に戒律を復興させたのが覚盛上人(かくじょうしょうにん)です。覚盛上人は1243年(寛元元年)に舎利会の創設や鑑真の遺徳顕彰などを行い、翌1244年(寛元2年)に正式に唐招提寺に入寺し、戒律の復興に尽力し、再興しました。寺観の本格的な復旧整備を行ったのは、覚盛の法灯を継いだ証玄で、諸伽藍の修理や仏像の造立などに尽力し、戒壇の創設も行いました。
 その後、14世紀の南北朝時代以降、戦乱によって寺勢は再び傾き、寺領も多くが収奪され、再び衰退していきました。江戸時代中期、1658年(万治元年)仏門に入った真言宗、新義派の僧、護持院隆光は唐招提寺で授戒を受けました。隆光は1686年(貞享3年)、5代将軍、徳川綱吉の命によって将軍家の祈祷寺である筑波山知足院の住職となったのを機に、急速に綱吉の帰依を得ました。徳川綱吉とその生母である桂昌院の帰依を受け、綱吉と桂昌院は唐招提寺にも帰依し、これを庇護して修理を行い、1698年(元禄11年)には戒壇院を再興しました。
 その一方、たびたび地震や雷火などの天災による被害を受け、1802年(享和2年)の火災では東塔、五重塔などの建築物が焼失してしまいました。
 その後、明治から昭和にかけて諸堂の修理、保存が行われ、1941年(昭和16年)には律宗戒学院の設立、1963年(昭和38年)には御影堂(旧興福寺一乗院宸殿の移築)の造立が行われました。











・南大門
 1960年(昭和35年)に天平様式で再建されたもので、五間の中央に三扉とする、切妻造りの建物です。現在掲げられている扁額は複製で、実物は新宝蔵に収蔵されています。



・金堂(国宝)
 南大門を潜った正面に建つ金堂は、8世紀後半の創建時の姿を残す代表的な建築物です。外観は、正面間口七間(中央間は約4.7m、両端は次第に狭くなり3.3m)、奥行き四間の寄棟造で、前面一間通りが吹き放ち、軒を支える組み物は三手先(みてさき)と呼ばれる形式で、その建立年代を示しています。
 堂内は連子窓から取り入れられた柔らかな光に満たされ、中央に本尊、盧舎那仏坐像、右に薬師如来立像、左に千手観音立像(いずれも国宝)が並んでいます。









・講堂(国宝)
 鑑真が、唐招提寺を開創するにあたり、平城宮の東朝集殿を賜り、移築したもので、唯一の宮殿建築の遺構です。外観は平屋の入母屋造本瓦葺で、現在の姿は鎌倉時代の改造によるところが大きいといわれているそうです。内部には、本尊弥勒如来坐像(重要文化財、鎌倉時代)、持国天、増長天立像(重要文化財、奈良時代)の他、多くの仏像が安置されています。



・鼓楼(ころう)(国宝)
 金堂、講堂の中間の東側に建つ2階建ての建築物です。本来は経楼とみられていますが、鎌倉時代に再建されたのち、鼓楼と呼ばれるようになったそうです。1階に鑑真和上将来の三千粒の仏舎利を奉安していることから「舎利殿」とも呼ばれています。外観は、上下階とも扉と連子窓で構成され、縁と高欄が取り付けられています。堂内の厨子には、仏舎利を収めた国宝の金亀舎利塔が安置されている。









・礼堂(らいどう)、東室(重要文化財)
 鼓楼の東に位置する南北19間の細長い建物の南側8間が礼堂で、従来は僧侶が起居した僧房でした。北側10間が東室、その間の1間は、馬道(めどう)と呼ばれる通路になっています。当初は講堂を中心に西と北にも同様の建物があり、三面僧房と呼ばれていましたが、礼堂と東室のみが現存しています。









・経蔵(国宝)、宝蔵(国宝)
 礼堂の東側に並んで建つ高床式の校倉(あぜくら)様式の建物で、小さいほうが経蔵です。南にある経蔵は、唐招提寺創建以前の新田部親王邸の米倉を改造したものといわれ、唐招提寺で最も古い建造物とされ、日本最古の校倉です。寄棟造、本瓦葺です。
 宝蔵は唐招提寺創建にあわせて建立されたといわれ、経蔵より一回り大きい姿は校倉の典型といえます。寄棟造、本瓦葺です。



・経蔵



・戒壇
 僧となるための授戒が行われる場所です。創建時に築かれたとされていますが、中世に廃され、その後、再興されたものの、火災により建物は失われ、鎌倉時代の3段の石壇のみが残っています。1978年(昭和53年)に石段の上にインド・サンチーの古塔を模した宝塔が築かれました。





・開山堂
 元禄時代に徳川家歴代の御霊殿として建立され、その後、1881年(明治14年)に鑑真大和上の尊像を安置するため現在の位置へ移築されました。国宝の和上像が御影堂へ移された後、覚盛上人、聖武天皇、徳川家康の坐像を安置した本願殿として参拝されていましたが、御堂の老朽化をうけて改修工事を行い、鑑真大和上円寂から1250年になる2013年(平成25年)に鑑真大和上のお姿を写した「御身代わり像(おみがわりぞう)」がつくられ、再び開山堂として落慶しました。





・開山御廟
 境内北東の奥まった静かな場所に位置する鑑真和上の墓所です。





・御影堂(みえいどう)(重要文化財)
 元は、興福寺の別当寺院、一乗院の宸殿と殿上の遺構で、明治以降は県庁や奈良地方裁判所の庁舎として使われていたものを1964年(昭和39年)に移築し、復元したものです。鑑真和上座像(国宝)を納め、御影堂としました。



・唐招提寺(とうしょうだいじ)
 住所:奈良県奈良市五条町13-46
 電話:0742-33-7900
 営業時間:8:30〜17:00
 定休日:無
 駐車場:有
 アクセス:近鉄、西ノ京駅から徒歩約10分