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更新日:
2019年4月26日
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◎松江城(2019年4月11日)
松江城は島根県松江市にある城です。全国に現存する12天守の1つで、2015年(平成27年)7月に国宝に指定されました。
もともとは鎌倉時代から戦国時代にかけて、この地に末次城(末次の土居)があったそうです。1600年(慶長5年)11月、関ヶ原の戦いで戦功があった堀尾忠氏(堀尾吉晴の子)が、遠江浜松12万石から隠岐・出雲24万石に加増、移封を得て月山富田城に入城し、出雲国、松江藩が成立しました。しかし月山富田城は中世の山城であり、近世の城下町を作るのに向かなかったため、別の場所に新しい城を築くことを考えたそうです。
堀尾忠氏は、運送などに有利な宍道湖と中海を結ぶ太田川の近く、末次城跡(亀田山)をその場所とし、1603年(慶長8年)に江戸幕府から新城建設の許可を得ました。1604年(慶長9年)、堀尾忠氏は城地選定のため島根郡や意宇郡の調査をしていたそうです。7月下旬に意宇郡の大庭大宮(神魂神社)に参拝し、神主を呼び出し、「当社には小成池があると聞いた。見物したい」と伝えたそうです。しかし神主は、禁足地であるとして断ったそうです。しかし堀尾忠氏は国主として見なければならないと主張したため、神主は案内人を連れて堀尾忠氏を池の近くまで連れて行き、そこから先は堀尾忠氏が1人で行ったそうです。しかし、帰って来た堀尾忠氏は顔色が紫色になっており、富田城に帰ってから自らの行為に後悔し、程なく病床につき、8月4日に病死してしまったそうです。享年27歳で、病弱でもなく、急死する理由が分からず、本当に病死だったかは謎だそうです。ニホンマムシに噛まれたのではないか、という説もあるようです。
堀尾忠氏の跡を子の堀尾忠晴が継いだものの、まだ6歳と幼少だったため、堀尾吉晴(堀尾忠氏の父)が実際の藩主として統治に当たりました。そして1607年(慶長12年)、末次城のあった亀田山に築城を開始し、1611年(慶長16年)正月までに松江城が完成しました。しかし1611年(慶長16年)6月には堀尾吉晴も亡くなってしまいました。その後、1633年(寛永10年)に堀尾忠晴が35歳という若さで亡くなると、嗣子がいなかったため改易となり、大名としての堀尾家は消滅しました。
1634年(寛永11年)に若狭国小浜藩(若狭・越前国敦賀郡)より京極忠高が出雲・隠岐両国26万石で入封し、三の丸を造営し、松江城の全容が完成しました。ただ、1637年(寛永14年)に京極忠高が嗣子なく没したため、京極家は改易となりました。(後に他国で再興されました)。1638年(寛永15年)に信濃国松本藩より松平直政が出雲18万6千石で入封すると、明治維新まで続きました。
1871年(明治4年)、廃藩置県の施行によって松江藩の領地は松江県の所有となり、約230年の松平家の治世に幕を下ろしました。そして1873年(明治8年)に廃城令が公布され、天守を除く建造物は4円から5円(当時の価格)で払い下げられ、全て撤去されてしまいました。天守も180円で売却されることになりましたが、出雲郡の豪農、勝部本右衛門父子や元藩士の高木権八が同額の金を国に納める形で買い戻され、保存されることになりました。その後、市民の寄付で天守の大修理が行われるなど、松江市民に愛されています。
千鳥が羽を広げたような曲線の屋根を「入母屋破風」と言い、それが東西南北の四方に乗っていることから、松江城は別名「千鳥城」と呼ばれるにようになったと言われています。また最近では、築城当時、「千鳥破風」と呼ばれる屋根の装飾があった可能性が指摘され、それが名前の由来になったという説もあるそうです。

・堀尾吉晴の銅像















・馬洗池(うまあらいいけ)








・松江城
住所:島根県松江市殿町1-5
電話:0852-21-4030
アクセス:JR、松江駅からレイクラインバスで約10分、国宝松江城(大手前)下車、徒歩約2分
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