原爆ドーム

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更新日:
 2019年4月26日



◎原爆ドーム(2019年4月11日)
 原爆ドーム(げんばくドーム、Atomic Bomb Dome)は、1945年(昭和20年)8月6日8時15分に日本の広島市に投下された原子爆弾の悲惨さを今に伝える建造物(被爆建造物)です。広島平和記念碑(ひろしまへいわきねんひ、Hiroshima Peace Memorial)とも呼ばれます。
 もともとは広島県の様々な物産品の展示、販売をする施設として1910年(明治43年)に広島県会で建設が決定され、6年後の1915年(大正4年)4月5日に竣工した建物です。北方の中国山地から広島湾に流れる太田川が形成したデルタ上、太田川(本川)と元安川の分岐する地点が建設場所に選ばれ、その河岸約2,310平方メートルを埋め立て、旧広島藩の米倉と民有地を整地して加え、全体で約3,200平方メートルの敷地だったそうです。
 チェコ人の建築家、ヤン・レッツェル(Jan Letzel)氏の設計で、建物は煉瓦と鉄筋コンクリートで作られた3階建てでした。正面中央部分は5階建ての階段室で、その上に楕円形のドーム(長軸約11m、短軸約8m、高さ4m)が載せられていました。屋根のドーム部分は銅板葺、そのほかはスレート葺とし、ドーム先端までの高さは約25m、建築面積は約1,002平方メートルでした。また、噴水池をもつ洋風庭園や、四阿をもつ和風庭園も整備され、一部に地階を有していました。設立当初は「広島県物産陳列館」という名称でしたが、その後、「広島県立商品陳列所」に改称されました。1933年(昭和8年)には「広島県産業奨励館」に改称され、広島県内の物産を陳列したり、博覧会などが開催される建物でした。
 戦争が激しくなった1944年(昭和19年)3月には産業奨励館としての業務が廃止され、内務省中国四国土木出張所や広島県地方木材株式会社、日本木材株式会社広島支社、広島船舶木材株式会社などの事務所として使用されていました。
 1945年(昭和20年)8月6日、午前8時15分、米軍のB29爆撃機によって人類史上初の原子爆弾が投下され、広島市街地の中心部の上空約600メートルで爆発し、一瞬のうちに広島市街地の建物が倒壊し、多くの人々の生命が奪われました。
 産業奨励館は爆心地から約160メートルの至近距離にあり、爆風と熱線を浴びて大破し、天井から火を吹いて全焼しました。原子爆弾が爆発した後、建物は0.2秒で通常の日光による照射エネルギーの数千倍という熱線に包まれ、地表温度は約3,000℃に達したと考えられています。0.8秒後には、前面に衝撃波を伴う秒速440メートル以上の爆風(ちなみに、気温30℃の時の音速は秒速349m)が襲い、350万パスカルという爆風圧(1平方メートルあたりの加重が35トン)にさらされたと考えられています。当時、この建物の中にいた内務省中国四国土木出張所や広島県地方木材株式会社、日本木材株式会社広島支社、広島船舶木材株式会社などの職員、約30人は全員、即死したと考えられています。
 建物は原子爆弾が爆発した後、1秒以内に3階建ての本体部分がほぼ全壊したものの、中央のドーム部分だけは全壊を免れ、枠組みと外壁を中心に残存しました。ドーム部分が全壊しなかった理由として、風が上方(爆発点高度約600m)からほぼ垂直に働いたこと、窓が多かったことから爆風が窓から吹き抜けた、ドーム部分の屋根の構成材が銅板であり、爆風到達前の熱線によって屋根が融解し、爆風が通過し易くなった、ことなどが考えられています。
 戦後、旧産業奨励館の残骸は、建物の頂上天蓋の円盤鉄骨の残骸が傘状になっている姿から、いつしか市民から「原爆ドーム」と呼ばれるようになりました。1951年(昭和26年)頃には、「原爆ドーム」という呼称が定着していたようです。
 戦後、広島の復興が進む中、全半壊した被爆建造物の修復ならびに解体が進められ、当初は産業奨励館廃墟も取り壊すべきだという意見が多かったそうです。しかし1949年8月6日に広島平和記念都市建設法が制定され、恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として広島平和記念公園構想が本格化しました。1953年(昭和28年)に所有権が広島県から広島市に移転され、原爆ドームこと産業奨励館廃墟の除去はひとまず留保されました。
 1955年(昭和30年)に丹下健三氏の設計による広島平和記念公園(平和公園)が完成しました。この公園は、原爆ドームを北の起点として原爆死没者慰霊碑、広島平和記念資料館が南北方向に一直線上に位置するよう設計されており、原爆ドームをシンボルとして際立たせる意図がありました。
 原爆ドームは原子爆弾の惨禍を示すシンボルとして知られるようになったものの、1960年代には風化が進み、崩落の危険が生じました。また、一部の市民からは「見るたびに原爆投下時の惨事を思い出すので、取り壊してほしい」という根強い意見があり、存廃の議論が活発化しました。広島市は当初、「保存には経済的に負担がかかる」、「貴重な財源は、さしあたっての復興支援や都市基盤整備に重点的にあてるべきである」などの理由から原爆ドーム保存には消極的で、一時は取り壊される可能性が高まっていました。
 これに対し、保存運動が本格化するきっかけと言われているのは1歳の時に被爆し、15年後に白血病で亡くなった楮山(かじやま)ヒロ子さんが残した日記だとされています。楮山ヒロ子さんは、1歳7ヶ月の時、爆心地から約1.25km離れた平塚町の自宅で被爆しました。傷ひとつ負いませんでしたが、市内の大下学園祇園高等学校に通い、高校1年を終えたばかりの1960年(昭和35年)3月、体に異常を感じ、広島市民病院に緊急入院したものの、入院6日後の4月5日に急性リンパ性白血病のため亡くなりました。
 楮山ヒロ子さんは、中学卒業の頃から日記をつけていました。亡くなる前年、1959年(昭和34年)8月6日には、「あのいたいたしい産業奨れい館だけがいつまでもおそるげん爆を世にうったえてくれるだろうか。」(原文のまま)と記していました。読みやすくすれば、「あの痛々しい産業奨励館(原爆ドーム)だけが、いつまでも、恐ろしい(恐るべき)原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろうか。」ということでしょうか。
 わずか16歳で命を閉じてしまった楮山ヒロ子さんの日記を読んで感銘を受けた平和運動家の河本一郎氏や「広島折鶴の会」が中心となって保存を求める運動が始まりました。広島市は1965年(昭和40年)7月から原爆ドームの強度調査を行い、1966年(昭和41年)7月、広島市議会が原爆ドームを永久保存することを決議しました。翌1967年(昭和42年)年には第1回保存工事が完了し、その後、定期的に補修工事が施されるなど広島市単体での保存、管理が続いていました。
 被爆50年にあたる1995年(平成7年)に国の史跡に指定され、翌1996年(平成8年)12月5日には、ユネスコの世界遺産(文化遺産)への登録が決定されました。

























・原爆ドーム
 住所:広島県広島市中区大手町1-10