福山城

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更新日:
 2019年4月26日



◎福山城(2019年4月11日)
 「福山城(ふくやまじょう)」は、広島県福山市にあった城です。1619年(元和5年)に水野勝成が備後10万石の領主として入府しましたが、この時の領地目録上は備後神辺城主でした。しかし、神辺城はやや内陸にあり、過去に何度も落城した歴史があったことなどから、一国一城令が徹底されていたこの時期としては珍しく、新規に築城され、1622年(元和8年)に完成しました。五重の天守と7基の三重櫓を持ち、二重の堀や瀬戸内海へ抜ける運河があったそうです。また、久松城(ひさまつじょう)、葦陽城(いようじょう)とも呼ばれていたそうです。
 1873年(明治6年)の廃城令によって大蔵省の所管となり、ほとんどの施設は民間に払い下げられ、建物は建築資材として売却、解体され、本丸の天守(付櫓を含む)、伏見櫓、筋鉄御門、御湯殿、鐘櫓、涼櫓を残すのみとなりました。また、本丸を除いた敷地のほとんどが売却され、宅地や農地などに転用されました。
 堀の大部分は官有のレンコン畑として利用されていたものの経営難となり、随時売却されていきました。内堀は1891年(明治24年)に民間に売却され、昭和初期までに福山駅の拡張などによって完全に埋められました。外堀は1891年(明治24年)までに山陽鉄道の線路敷設のため、南部の東西が埋められ、東南部は1914年(大正3年)に両備軽便鉄道駅舎(両備福山駅)の建設によって埋められました。他の堀も工場や宅地などに姿を変え、最後まで残った北西外堀は1935年(昭和10年)に福山女学校(現、葦陽高校)の運動場として埋め立てられました。
 本丸は1874年(明治7年)に歴史的記念物の破壊を惜しむ周辺自治体の誓願によって下賜され、1875年(明治8年)に「福山公園」として整備されました。しかし、傷みが進む天守の修復費用を確保できず、1884年(明治17年)に広島県に返納されました。しかしながら広島県は天守の修復どころか公園の維持費すら出し渋り、天守の破損は進み、園内も荒廃していきました。地元有志は月見櫓跡に貸席「葦陽館」を建設するなど、活性化策を講じたもののうまくいかず、見かねた福山町は県に公園の移譲を請願し、1896年(明治29年)に認可され、1897年(明治30年)に天守、伏見櫓、筋鉄御門、御湯殿の修理が行われました。
 昭和になると福山城の文化的価値が再評価され、1931年(昭和6年)に天守が、1933年(昭和8年)に伏見櫓、筋鉄御門、御湯殿が国宝に指定されました。また、1936年(昭和11年)には本丸が史跡に指定されました。しかし1945年(昭和20年)の福山大空襲によって伏見櫓、筋鉄御門を残して焼失してしまいました。
 1966年(昭和41年)の秋に市制50周年事業として天守閣、御湯殿、月見櫓が鉄筋コンクリート構造で復興されました。再建された天守内部は福山市立福山城博物館として利用され、天守最上階の回縁からは市街を360度見渡すことができ、晴れた日には瀬戸内海を望むこともできます。三の丸南側にはJR、福山駅があり、新幹線や福塩線のホームから天守や伏見櫓を目にすることができます。













・福山城
 住所:広島県福山市丸之内1-8