メニュー
TOPページ
観光地
地域情報
日本のホテル
日本のニュース
日本について
美味しいもの
海外事情
海外のホテル
食品の話
雑学
用語辞典
リンク
更新日:
2019年4月26日
|
◎縮景園(しゅっけいえん)(2019年4月11日)
「縮景園(しゅっけいえん)」は、江戸時代初頭の1620年(元和6年)から、広島浅野藩、初代藩主 浅野長晟(ながあきら)が別邸の庭園として築成した大名庭園です。作庭者は茶人としても知られる浅野藩の家老、上田宗箇(うえだそうこ)です。上田宗箇は中国、浙江省の景勝地である西湖(せいこ)の風景に模して造ったとも伝えられており、園の中央に掘られた濯纓池(たくえいち)には大小の島が浮かび、巧妙に配置された渓谷、橋、四阿(あずまや)を回遊しながら楽しむことができることから、回遊式庭園とも称されています。縮景園の地割りは実際の面積よりも大きく感じさせるように工夫されており、北の二葉山(東区)、西の己斐山(西区)の姿を借景としてうまく取り入れ、奥行きを出しています。
古くは、「お泉水(せんすい)」または、「泉邸(せんてい)」と呼ばれていましたが、儒学者の林羅山が2代藩主、浅野光晟(みつあきら)の求めに応じて作った詩の序文「海山をその地に縮め風景をこの楼に聚む」から「縮景園」の名称が付いたと言われています。
この庭園は歴代の藩主に愛好されました。5代藩主、浅野吉長(よしなが)は、1713年(正徳3年)にここへ赴き、邸内の山、池、建物、橋、島などにそれぞれ雅名を付け、儒者である堀南湖(ほり・なんこ)に命じて「縮景園記」を作らせました。
しかし、1758年(宝暦8年)に起きた宝暦の大火によって園内の多くの建物が焼失してしまいました。そこで7代藩主、浅野重晟(しげあきら)は、1783年(天明3年)に京都の庭師、清水七郎右衛門を招いて中国風大鼓橋「跨虹橋(ここうきょう)」を作るなど、大幅な改修を行い、庭園の景観を整えました。その後も1800年(寛政12年)、1804年(文化元年)、1808年(文化5年)に庭園の整備拡張を行っています。
明治以後も縮景園は引続き浅野家の別邸とされました。1894年(明治27年)に大本営が広島城内に置かれた時には、ここが副営となり、園内の清風館(せいふうかん)は明治天皇の居所にあてられていました。1913年(大正2年)には、園内に観古館(かんこかん)が設置され、一般市民にも開放され、観賞が許されるようになりました。
1940年(昭和15年)には浅野家から広島県に寄贈され、同年7月12日に名勝の指定を受けています。しかし、そのわずか5年後の1945年(昭和20年)、広島に投下された原子爆弾によって壊滅的な打撃を受け、建物や樹木などは、ほとんど失われてしまいました。また、縮景園は空襲時の市民の避難先に指定されていたため、被爆直後の園内は多くの被災者であふれていたそうです。
1949年(昭和24年)、広島平和記念都市建設法施行によって復旧が始まり、1951年(昭和26年)には復旧途中でしたが「縮景園」と改称され、再開園しました。本格的な復旧工事は1962年(昭和37年)から始まり、1964年(昭和39年)には清風館が、1974年(昭和49年)には数寄屋造りの茶室、明月亭(めいげつてい)が復元されました。このように1970年代に復元工事はほぼ完了し、現在に至っています。






・清風館

・濯纓池(たくえいち)



・十王堂

・御前水井戸

・縮景園(しゅっけいえん)
住所:広島県広島市中区上幟町2-11
電話:082-221-3620
営業時間:9:00〜17:00
定休日:12月29日〜31日
料金:無
アクセス:JR、広島駅から徒歩約15分
|