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更新日:
2019年4月26日
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◎鞆の浦(とものうら)(2019年4月11日)
「鞆の浦(とものうら)」とは、岡山県との県境、福山駅から南へ14km、広島県福山市の鞆地区の沼隈半島(ぬまくまはんとう)南端にある港湾およびその周辺海域のことです。現在では鞆港の港周辺の市街を含めた範囲も「鞆の浦」と呼ばれていますが、元々、「鞆の浦」とは「鞆にある入り江」という意味であり、鞆港を中心とした海域のことです。
日本の大動脈を担っていた瀬戸内海のほぼ中央に位置している鞆の浦は、満ち潮になると西は豊後水道や関門海峡から、東は紀伊水道から潮が入り、鞆の浦沖でぶつかります。この時、瀬戸内海を横断する船は一度、ここで止まって潮の流れが変わるのを待っていました。このため「鞆の浦」、「鞆港」は「潮待ちの港」と呼ばれるようになりました。
いつから、この「鞆の浦」、「鞆港」や港町ができていたのか詳細は不明ですが、一説では神話の時代とも飛鳥、奈良時代とも言われているそうです。日本最古の歌集「万葉集(759年〜780年頃、成立?)」には鞆の浦を詠んだ和歌が八首もあり、この頃にはすでに港としての役割を果たしていたことが伺えます。歌人、大伴旅人は、大宰府から都へ帰る途中の鞆の浦で亡き妻をしのぶ気持ちを「むろの木の歌」に詠んでいます。
1336年(建武3年)、足利尊氏が小松寺(鞆町後地(ともちょううしろじ))で光厳上皇からの命令を受けて挙兵したことから、室町幕府は鞆ではじまったという説もあるそうです。その後、室町幕府最後の将軍、足利義昭は織田信長から都を追放されましたが、現在の大阪や和歌山などを転々とした後、1567年に拠点を鞆に移し、ここで打倒信長を画策して、幕府再興を企んでいたそうです。室町幕府は鞆で始まり、鞆で終わったようです。
1601年(慶長6年)3月には安芸、備後の領主として福島正則が入部すると、鞆城を築城して城下町として整備されていきました。築城は1609年(慶長14年)まで続けられましたが、その後、廃城とされました。1619年(元和5年)に福島正則が移封され、水野勝成が入府し、福山藩が誕生し、鞆城跡には鞆奉行所が置かれました。鞆は次第に港町としての性格を強め、「鞆の津」と呼ばれるようになりました。北前船や九州船が寄港し、鞆の商業や文化は発展していきました。朝鮮通信使、琉球使節団、オランダ商館長などが鞆の津を訪れ、活気と豊かさに満ちあふれた町の様子を書き記した文献も数多く残されています。
1867年5月26日(慶応3年4月23日)、坂本龍馬率いる海援隊の「いろは丸」が瀬戸内海を航行中に紀州藩の明光丸(880トン)と衝突し、鞆の浦に曳航する途中で沈没しました。このため坂本龍馬らは交渉を行うために鞆の浦に上陸し、滞在しました。この事件は日本初の万国公法による海難審判となり、「いろは丸事件」として知られるようになります。このため鞆の浦には、今でも坂本龍馬ゆかりの地が残っています。
その後、明治維新を境に日本は近代化され、鞆の浦も商業港から保命酒や鞆鍛治といった伝統産業の町へと移り変わっていきました。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」に、1934年(昭和9年)に瀬戸内海が国立公園に指定されるなど、仙酔島をはじめとする名所旧跡を活かした昔ながらの風情を残した町となりました。さらに、江戸中期までに整えられた地割に、伝統的な町家や寺社、石垣などの石造物、港湾施設などが一体となって残る瀬戸内の港町としての歴史的な趣が高く評価され、2017年(平成29年)には国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。











・常夜灯(1859年(安政6年)再建)




・鞆の津の力石(ちからいし)
江戸時代、船積荷物の陸揚げ、積み込みに従事する仲仕(なかし)達が祭礼の場などで、この力石を持ち上げて、その力と技を競ったそうです。花崗岩製で、1個あたり重さ140〜200kg程度あるそうです。ここに3個あり、沼名前神社に20個あります。


・福禅寺 対潮楼(ふくぜんじ たいちょうろう)
海岸山千手院(かいがんざんせんじゅいん)福禅寺(ふくぜんじ)は、平安時代の天歴年間(947〜957年)に空也上人によって「観音堂」(天台宗)として建立されたと伝えられています。その後、1638年(寛永15年)に後水尾上皇によって真言宗大覚寺の末寺に指定され、その際、寺号が「観音堂」から「福禅寺」に改められました。
「対潮楼」は、1694年(元禄7年)に、憲意上人によって本堂が改築された際、新しく建てられた客殿で、朝鮮通信使三役の迎賓館として使われてきました。1711年(正徳元年)には従事官、李邦彦が、ここからの眺望を「日東第一形勝」と賞賛しました。1748年(延享5年)には正使、洪啓禧が客殿を「対潮楼」と命名し、書を残しています。



・淀媛神社

・弁天島

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