錦帯橋(きんたいきょう)

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更新日:
 2021年6月6日




◎錦帯橋(きんたいきょう)(2021年4月11日)
 錦帯橋(きんたいきょう)は、山口県岩国市の錦川に架橋された5連の木造アーチ橋です。他に例を見ない特異な姿の五連の反り橋が特徴で、1922年(大正11年)3月8日に史蹟名勝天然記念物保存法によって国の名勝に指定されています。橋の長さは、橋面にそって210m、直線で193.3m、幅は5m、橋台の高さは6.64mです。アーチ部分の最高点は川床から約13mもあります。
 1600年(慶長5年)に岩国の地に移封された岩国藩の初代藩主、吉川広家(きっかわ・ひろいえ)は1601年(慶長6年)に岩国に入ると、領内を検分し、城下町の造営に着手しました。横山の山頂を要害(防御するための砦、城塞)として城を、山の麓には御土居(おどい:藩主の居館、屋敷)を築くことにしました。そして錦川を天然の外堀とし、内側の横山地区に諸役所や上級武士の居住区を、対岸の錦見(にしみ)地区に中下級武士や町民の居住区を置くことにしました。したがって錦見地区に住む中下級武士は藩政の中心である横山地区へ行くために、幅200mの錦川を渡る必要がありました。橋は、城下町が造営された当初から架けられていたと考えられますが、大雨によって度々、流失し、藩政に大きな影響を与えていたようです。
 岩国藩三代領主の吉川広嘉(きっかわ・ひろよし)は、流されない橋を架けることを決意しました。橋脚をなくせば流失を避けられるとのアイディアのもと、橋脚のない甲斐の「猿橋」に着目し、大工の児玉九郎右衛門を甲州に派遣し、橋脚がない跳ね橋(刎橋)である猿橋の調査を命じました。しかし、川幅30メートルの所に架けられている猿橋に対し、錦川の川幅は200メートルもあるため刎橋(はねばし)は実現不可能との判断になりました。
 その後、広嘉は明からの渡来僧である独立(どくりゅう)が持っていた「西湖遊覧誌」に杭州の西湖に島伝いに6連のアーチ橋が架けられた図をヒントに、錦帯橋の構想を得ました。アーチ間の橋台を石垣で作り、強固にすることで、洪水に耐えられるようにするというアイディアでした。
 吉川広嘉は家臣の児玉九郎右衛門に架橋を命じ、1673年(寛文13年)6月28日、橋脚の鍬初めが行われました。橋脚の構築と同時に橋梁の建設も進められ、1673年(延宝元年)10月1日、現在の橋の原型となる木造橋が完成しました。
しかしながら、翌1674年(延宝2年)5月28日、錦川の洪水によって一部が流失しました。しかし、その年のうちに改良を加え、敷石を強化して1674年(延宝2年)中に再建された橋は、老朽による補修や架け替えは何度も行われたものの、1950年(昭和25年)年9月の台風29号(キジア台風)による洪水で流失するまでの276年間、流されることなく威容を保ち続けました。
 なお、橋は藩が管理し、藩内では掛け替え、補修の費用のために武士、農民など身分階級を問わず「橋出米」という税が徴収されていたそうです。ただし、当時、橋を渡れたのは武士や一部の商人だけで、一般の人が渡れるようになったのは明治に入ってからだそうです。
 また、架け替えられていく中で少しずつ、改良が重ねられてきたことが長年にわたり流出しなかったと考えられます。例えば、1682年(天和2年)には人が渡る時の揺れを抑える働きをもつ鞍木(くらぎ)と助木(たすけぎ)が橋裏に補強部材として追加されました。近年の強度実験でも、これらの部材によって、人が渡るときの初期微動が抑えられていることが実証されています。つまり、それまでの錦帯橋は人の歩行によって、上下左右の揺れが激しかったと考えられます。
 これ以降も様々な改良が行われ、度重なる改良や定期的な架け替え、橋板の張り替えなどを足し合わせると、その回数は100回を超えているそうです。
 ちなみに作られた当時は「大橋」と呼ばれることが多く、吉川広嘉が幕府から名前の記載を求められた際にも「岩国大橋」と書いたと言われています。他にも「凌雲橋(りょううんばし)」、「五竜橋(ごりゅうばし)」、「帯雲橋(たいうんばし)」、「算盤橋(そろばんばし)」など、複数の呼び名があり、「錦帯橋」という呼び名が広まったのは安永年間(1772年〜1780年)頃で、公式名称に認定されたのは明治維新後のことだそうです。
 「錦帯橋」の名前が初めて登場した史料は、1706年(宝永3年)、岩国の儒学者、宇都宮遯菴(うつのみやとんあん)による「極楽寺亭子記(ごくらくじていしき)」で、その中に「またいわく、錦帯橋、錦見(にしみ)の里に近きを以てなり」と書かれています。この内容から、錦見という地名から名付けられたのではないかと言われています。
 長年不落を誇った錦帯橋も、1950年(昭和25年)9月13日、キジア台風が岩国市を襲いました。翌14日には非常に危険な状態となり、3つの反り橋に水を入れた6尺桶を置くなどして防備に務めたものの、多くの市民が見守る中、午前9時47分過ぎ、濁流に呑み込まれ、惜しくも流失してしまいました。
 錦帯橋が流失した日、岩国市議会が招集され、政府へ錦帯橋復旧に対する協力を要望することが決議されました。当時は市道に認定されていたこともあり、文化財保護委員会(現、文化庁)や山口県、そして、建設省(現、国土交通省)からも補助を受けての災害復旧工事となりました。しかし、「近代交通に役立たない橋ではなく、コンクリート橋に変更すべき」との意見が出るなど、岩国市が要望した原型での復旧は厳しい状況でした。
 そこで、地元の粘り強い交渉が続けられ、最終的には、原型で復旧することとなったのです。ただし、全てを原型に復旧するのでは再び流失する恐れがあります。そこで、石組橋脚の基礎をコンクリートにすることや、高さを1m高くすること、拱肋の始点を支える隔石(へだていし)を沓鉄(くつてつ)に改めるなど、一部の改良を加えました。また、木部の延命を図るため防腐剤も使用することとしました。そして、1952年(昭和27年)12月26日に架橋が終了し、1953年(昭和28年)1月15日に渡り初めが行われました。
 再建から約50年が経過した2001年(平成13年)秋から「平成の架け替え」が行われました。伝統の木組み工法で行われた工事は公開され、期間中、普段見ることのできない木組みの構造美や、匠の技を間近で堪能することができました。約26億円をかけた「架け替え事業」は、劣化した木造部分を架け替えるもので3年を要して5橋全ての木造部分が架け替えられました。2004年(平成16年)3月20日に一般供用が開始されています。

























・錦帯橋(きんたいきょう)
 住所:山口県岩国市岩国1丁目
 電話:0827-29-5107
 営業時間:8:00〜17:00
 定休日:無
 料金:大人(中学生以上)310円、小学生150円
 駐車場:有
 アクセス:新岩国駅から約15分、錦帯橋バスセンター、下車、徒歩約1分