栗林公園(りつりんこうえん)

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更新日:
 2016年4月26日



◎栗林公園(りつりんこうえん)(2016年3月20日)
 「栗林公園(りつりんこうえん)」は、香川県高松市にある回遊式大名庭園(日本庭園)です。紫雲山の東麓にあり、紫雲山を背景にして6つの池と13の築山を配し、400年近い歴史を有する大名庭園です。面積は約75haで、文化財庭園としては国内最大の広さです。栗林公園は南庭と北庭で構成されており、南庭は江戸時代初期の大名庭園の姿を今日に伝えています。北庭は檜御殿が建っていて鴨場となっていましたが、大正時代初期に近代庭園のスタイルを取り入れた宮内省の市川之雄の設計で改修されました。1953年(昭和28年)には文化財保護法による「特別名勝」に指定されています。
 1600年代初めは地元の豪族、佐藤氏の小さな庭だったそうです。この頃の香東川は紫雲山を挟んで東西二筋の流れだったそうですが、1631年頃にこの地を治めた生駒駒高(いこまたかとし)の姻戚の藤堂氏(津藩主)のもとから派遣された西嶋八兵衛(にしじまはちべえ)が行った治水工事によって東側の流れが堰き止められ、西側の流れ一本に改変されたそうです。これにより東側の川の跡地は豊富な伏流水を持つ広い土地になり、庭園となる条件が整いました。
 生駒氏は改易によって出羽国由利郡矢島へ移付となり、代わりに1642年(寛永19年)5月、高松藩初代藩主の松平頼重(まつだいらよりしげ)が入府しました。松平頼重は7月に栗林の地を訪れ、検分しました。松平頼重は隠居の際、この地に栗林荘という御殿を建てて居住したそうです。第2代藩主、松平頼常は飢饉対策の救済事業として、被害に遭った人々を栗林荘の作庭に雇い、庭園を拡張し、南庭、北庭を備えた庭園を造ったそうです。
 第3代藩主、松平頼豊は、在国時は居所を高松城から栗林荘にするほど愛好し、庭内の整備を一層すすめたそうです。第5代藩主、松平頼恭(まつだいらよりたか)も薬園を設けるほど作庭に力を入れ、1745年(延享2年)に「名所60景」を撰名し、作庭が完成したとされています。(現在、「名所60景」は、南庭に46景と北庭に4景の計50景が残っています。)これ以降も歴代藩主が修築を重ね、明治維新に至るまでの228年間、高松藩松平家の下屋敷、「栗林荘」として使用されていました。
 明治になると1871年(明治4年)、高松藩が廃せられたことで新政府の所有となり、1873年(明治6年)1月に公布された「公園に関する太政官布告」に基づいて1875年(明治8年)3月16日に県立公園として一般に公開されるようになりました。明治の終わりに発行された高等小学読本によると、栗林公園は「日本三名園」とされる水戸の偕楽園、金沢の兼六園、岡山の後楽園よりも「木や石に風雅な趣がある」と記されているそうです。
 「栗林公園(りつりんこうえん)」という名前ですが、庭園が造られた当初から松で構成されているそうです。実際に訪問してみると松の木だらけで、栗の木は見つけられませんでした。実際には10数本の栗の木があるそうですが、これは1971年(昭和46年)に32本植栽したものの一部だそうです。したがって何故、「栗林公園(りつりんこうえん)」というのか、名前の由来は不明だそうです。ただ、江戸時代初期に讃岐国を治めた生駒家の分限帳に「栗林」の呼称が確認できるそうです。このことからも1640年頃には「栗林」の名が使われていたようです。現在まで、そのまま「栗林」の名が引き継がれてきましたが、「栗林」の名前の由来が分かりません。もともと「栗林」という地名だったという説、作庭する前は栗の木が群生していたとか、諸説あるようですが、いずれも決定打にかけるようです。





































・栗林公園(りつりんこうえん)
 住所:香川県高松市栗林町1-20-16
 電話:087-833-7411
 営業時間:7:00〜17:00
 定休日:無
 駐車場:有(有料)