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更新日:
2021年6月6日
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◎史跡高松城跡、玉藻公園(2021年4月11日)
かつて香川県高松市にあった高松城は、またの名を「玉藻城(たまもじょう)」と呼ばれたそうです。その由来は、柿本人麻呂が万葉集で、讃岐の国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことに因んで、このあたりの海が「玉藻の浦」と呼ばれていたことによるそうです。
高松城は1587年(天正15年)豊臣秀吉から讃岐一国、17万6千石を与えられ、国主として入府した生駒親正(いこまちかまさ)が、翌1588年(天正16年)から数年かけて、香東郡野原庄(のばらのしょう)と呼ばれていた現在地に築城した平城(水城)です。設計は、当時、築城の権威であった黒田孝高(如水)とも、細川忠興とも言われています。数年の歳月をかけて完成され、「野原」の地名を「高松」と改め、「高松城」と命名されました。
高松城は瀬戸内海に面して築城された海城で、瀬戸内海の海水を外堀、中堀、内堀に引き込んだ水城で、日本三大水城(高松城、今治城、中津城)の1つに数えられています。現在では、お堀には鯛が泳いでいるそうです。城には本丸を中心に時計回りに二の丸、三の丸、桜の馬場、西の丸が配され、三重の堀とともに堅固な構えになっていました。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは生駒親正は石田三成に味方しましたが、子の一正(かずまさ)は徳川家康に味方したことから、讃岐国17万1800石余は改めて生駒一正に与えられ、1602年(慶長7年)から高松城を居城としました。
生駒氏の治世は1640年(寛永17年)に生駒騒動と呼ばれる御家騒動による転封まで4代、54年間に及びました。生駒氏転封後、1642年(寛永19年)に、当時、常陸国(茨城県)下館藩主だった松平頼重に東讃岐12万石が与えられ、高松城に入城しました。頼重は徳川家康の孫で、徳川光圀(水戸黄門)の兄に当たる人です。頼重は城内の改修を行い、1670年(寛文10年)には天守の改築を完成させ、翌年から東ノ丸、北ノ丸を新造し、2代藩主、頼常は月見櫓や艮櫓などを建て、大手を南側から南東側に移動し、三ノ丸に御殿を建てました。その後、城は大きく改変されることなく、11代、228年間に亘って松平氏の居城としてその姿を見せていましたが、1868年(慶応4年)、官軍に開城することになりました。
高松城は1870年(明治3年)に廃城伺いを提出し、許可され、政府の所管となりました。城の中心部は陸軍の所有となり、天守をはじめとする多くの建物が取り壊されるとともに、外堀や海が埋め立てられ、市街化が進みました。1890年(明治23年)に城の中心部が松平家に払い下げとなり、天守台に藩祖、ョ重を祀る玉藻廟、三の丸に松平家の別邸として披雲閣が建築されました。1945年(昭和20年)には戦災で桜御門が焼失しました。また1945年(昭和20年)には松平家から公益財団法人松平公益会に継承され、さらに1954年(昭和29年)に高松市が譲り受け、高松市立玉藻公園として整備し、1955年(昭和30年)5月5日から一般に開放しました。現在の玉藻公園の面積は79,587m2(約2万4千坪)で、往時の城域66万m2(約20万坪)の約8分の1程度の広さです。
城園内には国の重要文化財に指定されている艮櫓、月見櫓、水手御門、渡櫓、披雲閣があるほか、国の名勝に指定されている披雲閣の庭園があります。春は桜見物、植木市、秋は菊花展など多彩な催しも開催されています。
・艮櫓(うしとらやぐら)(旧、太鼓櫓跡)




・鞘橋(さやばし)


・天守台



・旭橋と旭門

・月見楼


・披雲閣



・玉藻公園
住所:香川県高松市玉藻町2-1
電話:087-851-1521
営業時間:8:30〜17:00
定休日:12月29日〜12月31日
料金:大人(16歳以上):200円、小人(6歳以上16歳未満):100円、6歳未満の:無料
駐車場:57台
アクセス:JR、高松駅より徒歩約3分
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