今治城(いまばりじょう)

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更新日:
 2020年11月25日



◎今治城(いまばりじょう)(2017年11月5日)
 今治城(いまばりじょう)は、伊予国越智郡今治(四国、愛媛県今治市通町三丁目)にあった城です。1600年(慶長5年)、藤堂高虎は関ヶ原の戦いでの戦功によって徳川家康から、それまでの宇和島城8万石の安堵に加え、新たに今治12万石が加増されました。これによって藤堂高虎は新たな居城を今治城に定め、1602年(慶長7年)に今治城の普請を開始しました。
 その地に選んだのは、今治の海岸部に広がる砂丘地帯でした。砂丘のため地盤が脆弱で、城の重さに耐えられる固い地盤を作る必要がありました。しかし、瀬戸内海交通の要衝である来島海峡を監視すること、家臣を集住させて城下町を展開して政治、経済の拠点にするための広い敷地が他になく、この地を選んだようです。
 3重の堀は全国的にも珍しい海水を引き入れる構造で、城内の港として国内最大級の船入を備えた日本屈指の海城でした。また、石垣を高く積み、最大13mもの高さがあるそうです。さらに城の出入口である「虎口(こぐち)」を枡のような四角形の空間にし、敵を誘い込んで封じ込める構造にしたのも今治城が初めてだそうです。藤堂高虎が今治城で見せた数々の工夫は、その後の城造りの手本となったそうです。
 1608年(慶長13年)頃、今治城が完成したと考えられているようですが、この年、藤堂高虎は江戸城改築などの功もあり、今治城周辺の越智郡2万石を飛び地とし、伊賀国10万石、伊勢安濃郡、一志郡内10万石の計22万石に加増、移封され、津藩主となりました。このため飛び地の今治城には、藤堂高虎の養子であった藤堂高吉が城代として、この地を治めました。
 その後、1635年(寛永12年)に藤堂高吉は伊賀国名張に移り、代わって伊勢国長島城より松平(久松)定房が入城し、以後、明治維新まで今治藩、久松松平氏の居城となりました。
 広大な城郭は江戸時代、260年の間、保たれましたが、明治維新後、廃城令施行前の1869年(明治2年)に廃城され、ほとんどの建築物が破却され、内堀と主郭部の石垣を残すのみとなりました。この時、二の丸北隅の武具櫓は収蔵物とともに残されましたが、1871年(明治4年)に火災が発生し、内部の火薬に引火して爆発炎上し、破壊されてしまったそうです。
 1953年(昭和28年)10月9日に主郭部跡と内掘が愛媛県の史跡に指定されました。その後、1980年(昭和55年)に天守閣、多聞櫓、武具櫓などが再建されました。5層6階の天守閣は展望台、展示室になっています。2004年(平成16年)には、築城・開町400年を記念して、藤堂高虎の銅像が建立されました。さらに2007年(平成19年)には鉄御門(くろがねごもん)が再建されました。







・鉄御門





























・今治城(いまばりじょう)
 住所:愛媛県今治市通町3-1-3
 電話:0898-31-9233
 営業時間:9時〜17時
 定休日:12月29日〜12月31日
 料金:一般 520円、学生 260円
 駐車場:有
 アクセス:西瀬戸自動車道、今治ICから車で約15分