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更新日:
2019年2月13日
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◎松山城(2018年3月22日)
松山城は、松山市の中心部にある標高132メートルの城山(勝山)山頂に本丸があり、裾野に二之丸、三之丸(堀之内)がある、広大な平山城です。日本三大平山城の一つ、日本三大連立式平山城の一つとして数えられています。
わが国最後の完全な城郭建築と言われている大天守の最上階からは360度眺望がひらけ、松山平野や瀬戸内海などを見渡すことができます。その逆に、松山市内のほとんどの場所から天守を目にすることができます。四国最大の城郭で、日本の12箇所に現存している「現存12天守」の中では、姫路城と並ぶ連立式の天守を有しています。
松山城は、賤ヶ岳の合戦(1583年(天正11年)4月、近江国伊香郡(現、滋賀県長浜市)の賤ヶ岳(しずがたけ)付近で起きた羽柴秀吉と柴田勝家の戦い)で功名をあげた羽柴秀吉方の七本槍の1人、加藤嘉明が1602年(慶長7年)から築城を開始し、わが国の築城史上、最長の歳月(20年以上)をかけて完成した城です。
加藤嘉明は伊予国正木城(松前)城主10万石の大名でしたが、1600年10月21日(慶長5年9月15日)の関ケ原の戦いでの戦功で20万石に加増され、足立重信を普請奉行に任じ、麓に二之丸(二之丸史跡庭園)と三之丸(堀之内)を有する平山城の築城に着手しました。
1603年(慶長8年)10月に加藤嘉明は居を新城下に移し、それまで勝山と呼ばれていた地名を「松山」と称しました。これは、徳川家康の姓であった松平の「松」をもらい、当時の地名である「勝山」と合わせて「松山」としたようです。このため加藤嘉明は「伊予松山藩」として、この地を治めました。
ところが1627年(寛永4年)、加藤嘉明は松山城の完成前に会津藩40万石に転封となり、蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)が出羽国(山形県)上の山城から入国し、24万石の松山藩主となり、二之丸の築造を完成させました。蒲生忠知は1634年(寛永11年)8月、参勤交代の途中、京都で病没しましたが、嗣子がいなかったため蒲生家は断絶となりました。そこで1635年(寛永12年)7月に松平定行が伊勢桑名より転封となり、松山15万石の藩主となりました。築城当初から5重の連立式望楼型天守でしたが、松平定行は維持費がかかとして1642年(寛永19年)、3重に改築してしまいました。
1784年(天明4年)には落雷によって、この天守を含む本壇の主な建物が焼失しました。1820年(文政3年)、11代藩主、松平定通が天守再建工事にかかり、1854年(安政元年)2月8日、第12代藩主、松平勝善の時、大天守以下、本丸本壇の再建が完了しました。松山城は松平定行が松山に封じられて以来、14代世襲して明治維新まで続きました。
1933年頃までは、本丸部分には40棟の建造物が現存していましたが、1949年までに19棟が火災によって失われ、現存建築は21棟にまで減少してしまいました。建造物の現存数は二条城(京都府)の28棟に次ぐ規模です。
山頂に本丸、南西麓に二之丸、続いて三之丸があります。本丸北部には本壇という天守曲輪を持ち、大天守と小天守、南隅櫓、北隅櫓を3棟の渡櫓(廊下)で連結し、連立式天守をなしています。天守、小天守、隅櫓を渡櫓で互いに結び、建物で仕切られた中庭ができるのが特徴で、厳重な防備手法であるため天守防衛の究極の姿であるとも言われています。わが国の代表的な連立式天守を備えた城郭で「現存12天守」の中では、姫路城と同じ構成になっています。
天守の全高は、本壇から20m(しゃちほこの高さを入れると21.3m)で、本壇は本丸から8.3mの高さがあり、本丸の標高は約132mであることから、天守の標高は約161mあります。これは「現存12天守」の平山城の中では最も高い城郭です。山の高さは、同じ平山城である姫路城の約3倍の高さです。
北麓には北曲輪、南東麓に東曲輪があります。三之丸は6メートルほどの土塁で囲まれ、北と東に石垣造の虎口を開いています。また、日本で唯一現存している望楼型二重櫓である野原櫓(騎馬櫓)や、深さ44メートルにおよぶ本丸の井戸などが保存されています。
本丸から二之丸にかけては「登り石垣」を築いて囲み、丘陵斜面からの大手城道への侵入を防ぐ構造としています。この「登り石垣」は山腹から侵入しようとする敵を阻止する目的のため、ふもとの館と山頂の天守を、山の斜面を登る2本の石垣で連結させたもので、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、日本遠征軍の倭城築城で採られた防備手法と言われています。加藤嘉明は、朝鮮出兵で倭城(安骨浦城)を拠点としており、その経験から松山城築城に際しても、「登り石垣」をふもとの二之丸と標高132mの本丸間の防備として用いたものと考えられています。これは、「現存12天守」の城郭では松山城と彦根城でしか存在が確認されていないものです。
1950年(昭和25年)には大天守以下21棟の建造物について、重要文化財保護法により国の重要文化財に指定されました。1952年(昭和27年)には、二之丸と三之丸を含む松山城山公園が国の史跡に指定されました。1989年(平成元年)には、松山城山公園が「日本さくら名所100選」に選定されました。2006年(平成18年)には、松山城山公園が「日本の歴史公園100選」に選定され、また2006年(平成18年)4月6日には財団法人日本城郭協会より「日本100名城(81番)」に選定されています。2007年(平成19年)3月2日には「美しい日本の歴史的風土100選」に選定されています。
・重要文化財:21棟
天守、三ノ門南櫓、二ノ門南櫓、一ノ門南櫓、乾櫓、野原櫓、仕切門、三ノ門、二ノ門、一ノ門、紫竹門、隠門、隠門続櫓、戸無門、仕切門内塀、三ノ門東塀、筋鉄門東塀、二ノ門東塀、一ノ門東塀、紫竹門東塀、紫竹門西塀
・欅門跡(けやきもんあと)

・戸無門(となしもん)

・筒井門

・筒井門の内側

・隠門続櫓(かくれもんつづきやぐら)

・太鼓門(たいこもん)

・井戸

・天守




・紫竹門

・紫竹門内側


・松山城
住所:愛媛県松山市丸之内1
電話:089-921-4873(松山城総合事務所)
営業時間:9:00〜17:00
定休日:12月第3水曜日
料金:無
駐車場:有
アクセス:JR、松山駅から伊予鉄道、大街道、下車、ロープウエイで5分
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