為松公園(ためまつこうえん)

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更新日:
 2020年11月25日


◎中村城跡、為松公園(ためまつこうえん)(2017年11月5日)
 中村城(なかむらじょう)は、高知県四万十市(旧、中村市)中村市街地の北西部にある標高約90mの丘陵地(為松山)に為松氏が築いた連立式の平山城です。かつて丘陵地には「東城」、「為松城」、「御城(詰)」、「今城」と呼ばれる4つの城郭が連立し、総称して「中村城」と呼ばれていました。
 応仁2年(1468年)に起きた応仁の乱で京が荒れ果てたため、公家で関白まで就任した一條教房は自身の荘園のある土佐幡多荘(土佐中村)に下向して土着しました。そして、この地の豪族であった為松氏は一條家の配下となり、後に一條家四家老の1人となりました。その為松氏によって築城されたのが中村城だとされていますが、築城年代は定かではないそうです。
 一條教房の次男、一條房家が初代、土佐一條家となり、土佐中村に「土佐の小京都」と呼ばれる街を築き、繁栄させたそうです。しかし、4代当主、一條兼定は天正2年(1574年)に重臣の土居宗珊とその一門を殺害したため、土佐一條家、家老、羽生監物、為松若狭守、安並和泉守の3人の合議によって強制的に隠居させられ、幽閉された後、豊後に追放されてしまいました。しかし、この混乱に乗じて土佐東部、土佐中部を支配していた長宗我部元親によって中村城は占拠され、長宗我部元親の弟である吉良親貞が城主になり、幡多郡を支配しました。
 一条兼定は天正3年(1575年)、中村を奪還するため、伊予の法華津播磨守らの助勢を得て栗本城に要害を構えて拠点とし、土佐国に攻め込んできました。一条兼定と長宗我部元親の軍勢は渡川(四万十川)を挟んで戦いましたが、一条兼定の軍勢は敗れ、伊予に退きました。これにより長宗我部元親は、土佐国を統一しました。
 その後、関ヶ原の戦いでの功績によって徳川家康から土佐一国を拝領した山内一豊が、1601年(慶長6年)に土佐に入ると、高知平野のほぼ中心に位置する標高45mの大高坂山(おおたかさかやま)に高知城を築城します。そして山内一豊の弟、康豊を中村城の城主とし、土佐の西の要衝を監視させました。慶長18年(1613年)に2代藩主、山内政豊によって城の再築が行われましたが、その2年後の慶長20年(1615年)に幕府が制定した一国一城令によって中村城は廃城とされました。
 大正3年(1914年)に中村町が為松山を「為末公園」として整備を開始し、昭和40年(1965年)の調査では、埋もれていた石垣の一部を発見しました。現在では土塁、石垣、曲輪(くるわ)が残る城跡公園として整備されています。
 また、二の丸跡地には模擬天守の形をした四万十市郷土博物館が建てられ、四万十市(土佐中村)に関する歴史、文化が展示されています。館内には、土佐一条家にまつわるものや、四天王寺や法隆寺など、日本には4本しかない七星剣などが展示されています。











・四万十市郷土博物館



・山之神社





・中村城跡、為松公園
 住所:高知県四万十市中村2356
 駐車場:有
 アクセス:土佐くろしお鉄道、中村駅から車で約10分