警固神社(けごじんじゃ)

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更新日:
 2020年11月25日



◎警固神社(けごじんじゃ)(2017年11月5日)
 「警固神社(けごじんじゃ)」は、福岡県福岡市の繁華街、天神の中心にある神社です。社伝によると創建は仲哀天皇9年(西暦200年)という由緒ある神社だそうです。社伝では、神直日神(かんなおびのかみ)、大直日神(おおなおびのかみ)、八十枉津日神(やそまがつひのかみ)の三神が仲哀天皇9年庚申(西暦200年)の冬、神功皇后(じんぐうこうごう)が新羅親征した時に現れ、軍衆を警固して勝利に導いたそうです。そこで神功皇后は凱旋の後、神号を警固大明神と仰いで、福崎丘上(現在の福岡城本丸跡)に奉祀したそうです。これが、警固神社の創祀と伝えられているそうです。
 この当時は、現在地ではなく、福崎(福岡の旧地名)の丘陵にあったそうです。時代が下り、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでの戦功によって徳川家康から筑前国名島に52万3,000余石を与えられた黒田長政が入府すると、それまでの名島城を廃城とし、福崎に新城の築城を決定しました。これにより警固神社は下警固村(現在の福岡市中央区天神周辺)に遷され、薬院の地に鎮座していた小烏神社が合祀されたそうです。さらに1608年(慶長13年)に福岡城主、黒田長政によって薬院の北(天神二丁目の現在地)に社殿が造営され、再度、遷されたそうです。ちなみに黒田長政が当時、福崎と呼ばれていたこの地を黒田氏ゆかりの備前国の故地から「福岡」と名付けたそうです。また、福岡城は7年ほど、1606年(慶長11年)に全体が完成したそうです。
 社名及び周辺の地名であった「警固」は、かつて鴻臚館(こうろかん)の近くに置かれた大宰府の防衛施設であった役所「警固所」に由来するそうですが、そうだとすると創建年代がおかしくなると思います。鴻臚館は、飛鳥、奈良、平安時代の外交施設です。中国大陸や朝鮮半島からの使節団の迎賓館として、また日本の外交使節である遣唐使や遣新羅使の宿泊所としても使用されたそうです。
 その鴻臚館が最初に歴史に姿を現すのは688年(持統天皇2年)で、当初は「筑紫館(つくしのむろつみ)」と呼ばれたそうです。平安時代になって、中国・唐の外交を司った「鴻臚寺(こうろじ)」にならい「鴻臚館」と改称されたそうです。この頃より鴻臚館は、外交から貿易の拠点へと役割が変わり、約400年の間、対外交渉の窓口として重要な役割を担ったそうです。しかし、1047年(永承2年)の放火事件の記録を最後に歴史の舞台から姿を消してしまいました。
 西暦200年から688年までの間は「警固所」が無いのですから、「警固」という地名はありません。「警固所」ができて、すぐに「警固」という地名となり、浸透するとは思えません。少なくとも西暦700年以降でないと「警固」という名称は存在しなかったのではないでしょうか。それまでは別の名前で呼ばれていたのかもしれませんが、そのような社伝が無い以上、仲哀天皇9年(西暦200年)創建ということに信ぴょう性がなくなります。
 ただ、江戸時代以降は福岡城の鎮守として、黒田家から厚く崇敬されたそうです。二代福岡藩主、黒田忠之の産神とされ、1621年(元和7年)11月5日には黒田長政から社領八十石の御寄附があり、その後も歴代藩主からの寄進が行われたそうです。

・鳥居
 二代藩主、黒田忠之が1639年(寛永16年)に建立したもので、石材は糸島市の可也山から切り出したものです。





・神社石標



・手水舎





・神門(2008年の式年遷宮の際に立て替えられた)



・社殿





・今益稲荷神社













・警固神社(けごじんじゃ)
 住所:福岡県福岡市中央区天神2-2-20
 電話:092-771-8551
 営業時間:5時30分〜18時
 定休日:無
 駐車場:有
 アクセス:西鉄、大牟田線、福岡天神駅から徒歩約1分