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更新日:
2019年5月25日
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◎熊本城(2019年5月15日)
「熊本城」は熊本県熊本市にあった城です。中世に千葉城、隈本城が築かれ、1586年(天正14年)の豊臣秀吉の九州平定の後、肥後国領主となっていた佐々成政が失政により改易されると1588年(天正16年)、加藤清正が肥後北半国19万5,000石を与えられました。そこで1588年(天正16年)、加藤清正は隈本城に入り、1591年(天正19年)頃から千葉城、隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に城郭を築き始めました。
1600年(慶長5年)頃には天守が完成したそうです。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの行賞によって加藤清正は肥後一国52万石の領主となりました。1606年(慶長11年)に城の完成を祝い、翌1607年(慶長12年)に「隈本」を「熊本」と改めました。これにより熊本城となりました。
加藤清正が1611年8月2日(慶長16年6月24日)に死去すると息子の加藤忠広が跡を継ぎましたが、1632年(寛永9年)、加藤忠広は失政を理由に改易されてしまいました。これによって豊前小倉城主だった細川忠利が肥後54万石の領主となり、熊本城に入りました。その後、熊本城は明治まで細川家の居城となりました。
ただ、この細川の時代は城地の拡張と増築が盛んに行われたそうです。当初はなかった二の丸、三の丸が西側に造られたそうです。これらの城郭は明治時代まで残っていたそうですが、明治維新後、1873年に日本陸軍の部隊である熊本鎮台(くまもとちんだい)が置かれると、一部の建物、石垣、曲輪などが改変されたそうです。
さらに1877年(明治10年)1月29日に起きた西南戦争時、熊本鎮台司令長官、谷干城(たにたてき)率いる鎮台兵3500人が熊本城に籠りました。この時、2月21日に薩摩軍が熊本城を包囲する直前、2月19日に熊本城内で原因不明の火災が起き、天守、本丸御殿、櫓など、重要な建物が焼失しました。2月22日夜明け前から熊本城への攻撃が始まったものの陥落させることはできず、結果、4月14日に包囲を解くことになりました。
その後、1889年(明治22年)の熊本地震で石垣の一部が崩落したそうです。その後、改修されたものの、それ以外は、ほぼ江戸期の姿をとどめていたそうです。そのため1933年(昭和8年)には宇土櫓や監物櫓など計13棟が国宝(1950年(昭和25年)に国宝建造物は重要文化財に改称されました)に、石垣や堀など城跡が「熊本城跡」として国の史跡に指定されました。
1945年(昭和20年)7月1日には市街地の20%を焼失した熊本大空襲など、度々、空襲に襲われたものの、奇跡的に焼失を免れたそうです。しかし、終戦後、1946年(昭和21年)には、日本に進駐したアメリカ軍が城内に施設を作った際、車両通行の妨げになるとして、竹之丸門が破却されてしまいました。
1955年(昭和30年)に「熊本城跡」として国の特別史跡に指定されると天守閣復元の機運が高まり、翌1956年(昭和31年)には、市政70周年事業で天守閣再建を公約に掲げた坂口主税(さかぐちちから)氏が市長に当選しました。そして1960年(昭和35年)9月22日、鉄骨・鉄筋コンクリート造の熊本城の大小天守閣が再建され、外観が復元され、落成式が行われました。
その後、2007年(平成19年)、築城400年に際して、本丸御殿大広間をはじめ、西出丸の塀、戌亥櫓、元太鼓櫓、奉行丸の塀、未申櫓、南大手門などの建造物が数年かけて復元されました。
しかしながら2016年(平成28年)4月14日21時26分以降発生した最大震度7の熊本地震の前震と本震(4月16日1時25分発生)など、相次ぐ地震の揺れによって甚大な被害を受けました。その後、復旧工事が行われています。

























・熊本城
住所:熊本県熊本市中央区本丸1-1
電話:096-223-5011
営業時間:9:00~17:00
定休日:12月29日〜12月31日
駐車場:有
アクセス:JR熊本駅から路面電車に乗車、熊本城市役所前から徒歩約10分
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