照國神社、照国神社(てるくにじんじゃ)

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更新日:
 2020年11月25日



◎照國神社(てるくにじんじゃ)(2017年11月5日)
 「照國神社、照国神社(てるくにじんじゃ)」は、鹿児島県鹿児島市照国町にある神社です。江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社の1つで、薩摩藩第11代藩主、島津家第28代当主、島津斉彬(しまづなりあきら)を祀っています。
 御祭神の島津斉彬は文化6年3月14日(1809年4月28日)、第10代藩主、島津斉興(しまづなりおき)の長男として江戸薩摩藩邸(薩摩藩上屋敷)で生まれました。嘉永4年(1851年)2月に斉興が隠居し、斉彬が43歳で第11代藩主に就任しました。江戸幕府は第12代将軍、徳川家慶(とくがわいえよし)の時代ですが、幕末に向かう激動の時代でした。
 島津斉彬は藩主に就任すると藩の富国強兵に努め、磯別邸(現在の鹿児島市磯地区)の隣接地を切り開いて近代洋式工場群の建設に取り掛かりました。嘉永4年7月(1851年8月)には、土佐藩の漂流民でアメリカから帰国したジョン万次郎を保護し、藩士に造船法などを学ばせ、後には洋式帆船を造船し、航海法も学ばせました。1852年(嘉永5年)には反射炉の建設を始め、溶鉱炉の建設(安政元年:1854年)、洋式帆船「昇平丸」の建造(安政元年:1854年)、蒸気船「雲行丸」の建造(安政2年:1855年)、反射炉の建設(安政4年:1857年)、鉄製大砲の生産、藩内の各地に火薬の原料となる硝石工場や火薬製造所を建設、ガラス、ガス灯の製造など、様々な事業を起こしました。安政元年(1854年)には石造りの波止場を改造するなど、外国船の侵入に備えて藩内各所の沿岸に砲台を建設したそうです。さらに帆船に使用する帆布を確保するため、紡績業の振興に力を注ぎ、水車で機織機を動かして綿布の増産に取り組んだそうです。この場所は安政4年8月(1857年)に「集成館」と名付けられたことから、後日、これらの事業をまとめて「集成館事業」と呼ばれるようになったようです。
 しかしながら斉彬は翌安政5年7月8日(1858年8月16日)、鹿児島城下で出兵のための練兵を観覧の最中に発病し、7月16日(8月24日)に死去しました。享年50(満49歳)でした。施政は僅か7年でしたが、崇敬の念を寄せる庶民の願いによって神社設立の運動が起り、文久2年(1862年)、鶴丸城の西域である南泉院の郭内に社地を選定したそうです。そして、翌文久3年(1863年)5月11日、朝廷から従三位権中納言を追賞してもらい、照国大明神の神号を与えられたことから、その地に一社を創建したそうです。翌元治元年(1864年)に社殿が竣工し、照國神社と称しました。
 西南戦争(1877年(明治10年)1月29日〜9月24日に)の兵火によって社殿と宝物を焼失してしまいましたが、1882年(明治15年)に復興されました。しかし、1945年(昭和20年)には戦災で再び焼失してしまいました。1958年(昭和33年)に本殿が、1963年(昭和38年)に拝殿が、1967年(昭和42年)に神門が再建されました。その後、1987年(昭和62年)に東授与所、翌1988年(昭和63年)に西授与所が建設され、さらに1994年(平成6年)には御鎮座130年記念として幣殿が拡張されました。
 今日では鹿児島市で最も大きな神社として、鹿児島の総氏神様として、多くの人々に崇敬されているそうです。































・照國神社(てるくにじんじゃ)
 住所:鹿児島県鹿児島市照国町19-35
 電話:099-222-1820
 営業時間:8:30〜16:30
 定休日:無
 料金:無
 駐車場:有
 アクセス:JR、鹿児島中央駅より徒歩約20分