雷電神社

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更新日:
 2013年1月3日



◎雷電神社(2013年8月)
 群馬県邑楽郡板倉町板倉にある神社です。主に関東地方に点在する「雷電神社」、「雷電社」の事実上の総本宮です。他の雷電神社と区別するため、「板倉雷電神社(いたくららいでんじんじゃ)」とも呼ばれるようです。茨城県水戸市の別雷皇太神、茨城県つくば市の金村別雷神社と並んで、関東三雷神の1社とされています。
 現在の主な御祭神(ごさいじん)は、天地に轟き、火と水の大いなる働きをつかさどりたもう、火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)、大雷大神(おおいかづちのおおかみ)、別雷大神(わけいかづちのおおかみ)の三柱です。また、併せて学問の神、管原道真公がおまつりされています。
 創建は、社伝によると推古天皇6年(598年)で、当時は伊奈良(いなら) の沼と呼ばれる湿地に浮かぶ小島であったこの地に、聖徳太子が神の声を聞き、祠(ほこら)を設けてその神を祀ったものとされています(ただし、これを後世の付会であるとする説もあります)。
 延暦20年(801年)、東征した坂上田村麻呂が社殿を造営したところ、その宮祭の夜、境内にあった杉の木の梢に沼の中から灯が上ってきて闇を照らした、とされています。現在、境内東側にて枯れて、幹の一部から下のみを残す「龍灯の杉」に纏わる伝説として語り継がれています。
 古くから雷の被害が多い土地であり、また、暴れ川で度々、流路を変えた渡良瀬川と利根川との間にあって、度々、火災や水害に見舞われたが、延宝2年(1674年)、当地を治めていた館林藩の藩主であった徳川綱吉が本社社殿を再建した。これにより、社殿に徳川家の三ツ葉葵の紋章を使うことを許された。後に、綱吉が徳川幕府の第5代将軍となるに及び、次第に繁栄していった。
 現在の本社社殿は天保6年(1835年)、奥社社殿は慶応4年(1868年)の造営で、江戸時代神社装飾建築の粋を集めた華麗な二間社権現造(にけんしゃごんげんづくり)の社殿です。本社社殿には左甚五郎から10代目の石原常八(いしはらつねはち)の作とされる彫刻に装飾されています。北関東のこの時代にしか見られないという特異な建築で、群馬県指定重要文化財の指定を受けています。
 明治時代は郷社に列せられ、第二次世界大戦後に宗教法人化されました。今日では、雷除けはもとより、氷嵐除けや豊作祈願、厄除けや安全、特に電気関係をはじめとする諸工事の安全の神として名高いです。また、毎年大型連休中の例祭や、春の蝋梅(ろうばい)および、椿が美しい神社としても有名です。

 雷電神社の本殿は、正面の真ん中に一本柱が立ち、その左右に扉が付くという、全国で七ヶ所しか見られない神秘の造りです。大いなる雷電様のお力が外に出ないようにし、いかなる災厄をも祓い去って下さる大神様の偉大な御力をわたしたちのためにお恵み戴こうというものです。

 本社社殿裏手にある奥宮(おくみや)は本社の真後ろにある社殿です。江戸時代最後の慶応4年(1868年)の造営で、大工の棟梁は三村正秀です。流造(ながれづくり)で、全て白木(しらき)の社殿に名工のノミの冴えを見ることが出来ます。伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)が祀られ、家内円満・子授け・安産・縁結びなどを叶える女神とされています。群馬県の重要文化財に指定されています。

 境内裏手の別棟に置かれている鯰(ナマズ)の石像は「なまずさん」と呼ばれ、撫でると地震を除け、元気回復・視力改善・自信が湧き出る、などのご利益があると云われています。また、門前では鯰料理が名物となっています。

 境内にある椿の庭には福禄寿(ふくろくじゅ)の石像があり、3つの幸せ(子孫繁栄・財産富裕・不老長寿)を授けるとされています。












住所:群馬県邑楽郡板倉町2334
電話:0276-82-0007
アクセス:東北自動車道、館林ICから車で10分程度。