法華寺

  メニュー

TOPページ 

観光地 

地域情報 

日本のホテル 

日本のニュース 

日本について 

海外事情 

海外のホテル 

雑学 

リンク 


更新日:
 2021年4月26日




◎法華寺(2021年4月11日)
 法華寺(ほっけじ)は、奈良県奈良市法華寺町にある光明宗の本山の寺院です。藤原不比等の邸宅跡に造られた光明皇后ゆかりの門跡尼寺として知られています。門跡寺院とは、皇族、貴族の子女などが住職となる格式の高い寺院のことです。741年(天平13年)2月14日、聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院が国分僧寺(こくぶんそうじ)、国分尼寺(こくぶんにじ)ですが、東大寺が全国の総国分寺とされたのに対し、法華寺は総国分尼寺と位置づけられていました。
 710年(和銅3年)に平城京に都が移された際、藤原不比等は、この一帯を治めていた土師(はじ)氏から土地を譲り受け、この地に邸宅を構えたそうです。この時、北東隅に土師氏ゆかりの寺院があり、その寺院は壊さずに残され、現在は「海龍王寺」となっています。
 720年9月9日(養老4年8月3日)に藤原不比等が亡くなると娘の光明皇后(第45代天皇、聖武天皇の皇后)が相続し、邸宅は皇后宮となりました。光明皇后は仏教に篤く帰依し、東大寺および国分寺の設立を夫の聖武天皇に進言したと伝えられています。
 745年(天平17年)5月、光明皇后の発願によって自分の住居であった皇后宮を宮寺としたのが法華寺の始まりです。この宮寺を「法華寺」と称したことが文書で初めて確認できるのは、747年(天平19年)正月の「法華寺政所牒」(正倉院文書)だそうです。
 ただ、国分尼寺という位置づけでありながら、伽藍の完成までには相当の歳月を要したと考えられているそうです。762年(天平宝字6年)の「作金堂所解(さくこんどうしょげ)」および「造金堂所解案」という文書には、この時、金堂の建立工事がまだ続いていたことが分かるそうです。なお、法華寺造営のための役所であった「造法華寺司」は782年(延暦元年)に廃止されていることから、この時までには伽藍の整備が終わっていたと考えられています。
 現在の南門の南側に金堂が建つなど広大な寺地を有し、東西両塔、金堂、講堂、食堂(じきどう)など壮大な伽藍を誇っていたようですが、都が平安京に遷ると奈良は次第に廃れ、他の寺と同様に法華寺も衰退していきました。1180年(治承4年)の平重衡の兵火では東大寺、興福寺が炎上し、法華寺も被害を受けたそうです。
 鎌倉時代に入り、東大寺大仏殿の再興を果たした僧、重源は1203年(建仁3年)、法華寺の堂宇や仏像を再興しました。現在も寺に残る鎌倉時代様式の木造仏頭は、この再興時の本尊、廬舎那仏(るしゃなぶつ)の頭部であると推定されているそうです。さらに、その半世紀後、鎌倉時代中期の真言律宗の僧、叡尊(えいそん)が金堂をはじめとする諸堂の再興を行い、多くの尼僧に戒を授け、戒律復興と仏法興隆に尽力しました。
 しかし室町時代の1499年(明応8年)12月、大和国に攻め込んできた細川政元の家臣、赤沢朝経によって焼き討ちされると、1506年(永正3年)7月、再び攻め込んできた赤沢朝経によって再度、焼き討ちされてしまいました。1596年(文禄5年)には慶長伏見地震によって東塔以外の建物を失ってしまったそうです。これを復興したのが豊臣氏でした。豊臣秀頼の母、淀殿が発願し、1601年(慶長6年)から翌年にかけて、片桐且元(かたぎりかつもと)を奉行に任命して本堂、鐘楼、南門などが再建されました。現在、残っている法華寺の伽藍はこの時に再興されたものです。
 江戸時代になり、1670年頃、後水尾天皇の養女、高慶尼が入寺してからは、皇室、公家の姫君が住職を務める尼門跡寺院となり、瓦には菊の御紋があしらわれています。
 叡尊の時代以来、真言律宗における門跡寺院としての寺格を保っていましたが、1999年(平成11年)に創建当時のように独立した寺に戻ることとなり、光明皇后にちなんで「光明宗」と名づけ、離脱、独立しました。
 本堂は桃山時代に再建された和様の仏殿で、木造十一面観音立像(国宝)、木彫維摩居士坐像(国宝)などが安置されています。









・法華寺
 住所:奈良県奈良市法華寺町882
 電話:0742-33-2261
 営業時間:8:30〜16:30
 駐車場:有
 アクセス:JR、奈良駅から西大寺駅行バスで14分、「法華寺前」下車、徒歩約2分