林神社(りんじんじゃ)

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更新日:
 2019年4月26日



◎林神社(りんじんじゃ)(2019年4月11日)
 林神社(りんじんじゃ)は奈良県奈良市にある漢國神社(かんごうじんじゃ)の境内にある境内社です。「林」は「はやし」ではなく、「りん」と読みます。これは、中国(当時は「元」)から渡来した林浄因(りんじょういん)という人物を祀っているからです。
 弘安7年(1284年)11月23日、現在の千葉県香取郡に生まれた龍山徳見は、永仁3年(1295年)、12歳の時、仏道入門を志して郷里を出ると鎌倉の寿福寺に至り、弟子入りし、17歳で得度しました。そして中国への留学を志し、嘉元3年(1305年)、22歳で商船に乗って渡海し、中国、浙江省の「天童禅寺」で修業をしたそうです。林浄因は、中国、浙江省に生まれ、龍山徳見が修行していた当時、この寺で饅頭(マントウ)職人を務めていたそうです。
 そして龍山徳見が日本に帰国する際、龍山徳見の俗弟子となって付き従い、1349年、龍山徳見が66歳の時、一緒に日本に来て、奈良県奈良市の漢國神社がある林小路という場所に居を構えたそうです。そして戒律によって肉が食べられない禅僧のために、それまで肉を詰めて作っていたマントウをアレンジし、「饅頭」という菓子を作りました。肉の代わりに、小豆餡に甘葛煎(あまずらせん)と塩を加えた漉し餡を具とし、小麦粉を水で練って発酵させた老麺(ラオミェン)を使って皮にした食べ物でした。当時、日本には甘味は、柿や栗の干したものしかなかったため、非常に革新的な菓子となり、寺院や上流貴族の間で大評判となったそうです。
 この食べ物は「奈良まんじゅう」と呼ばれ、形状は底が扁平で上が丸く膨れ上がり、林浄因が表に紅で「林」の一字を描いていたそうです。林浄因がこの饅頭を後村上天皇へ献上したところ、天皇はこれを大いに褒め、林浄因を寵遇して宮女を賜ったそうです。林浄因は婚礼に臨み、紅白饅頭を作って諸方に配り、これが慶事の紅白饅頭の始まりだそうです。
 林浄因は帰化し、二男二女をもうけましたが、龍山徳見が1358年12月14日(延文3年、正平13年11月13日)に亡くなると、寂しさのあまり帰国してしまったそうです。このため、それ以降の饅頭作りは残された妻子だけで続けたそうです。
 その後、一族の一部は京都に移り、奈良の南家と京都の北家に分かれました。京都の一族は、さらに京都北家と京都南家に分かれ、それぞれ繁盛し、京都北家は後に「塩瀬」の名を冠するようになりました。この一族の末は、現在、東京と中央区で志ほせ饅頭(しおせまんじゅう)を製造、販売している塩瀬総本家につながります。また、京都南家からは戦国時代に林宗二が出て文化人として活躍しました。奈良の南家は大坂夏の陣の後に貸屋業に転じ、饅頭屋は廃業してしまいました。
 林浄因が饅頭を発明したことを記念して1949年(昭和24年)に製菓業者らが中心となって建立したのが「林神社」です。林浄因が林小路に住んでいたことから、この地にある漢國神社の境内に林神社を建てたものと考えられます。また林浄因の命日である4月19日には、林浄因の偉業を讃え、菓子業界の繁栄を祈願する「饅頭まつり」が毎年、行なわれ、全国の和菓子屋、饅頭屋が参加し、たくさんの饅頭が献上され、一般参拝者には無料で饅頭と抹茶が振る舞われています。
 また、春の「饅頭まつり」に対して、秋には「節用集まつり」が行われています。林浄因から七代目の林宗二(りんそうじ)は家業(京都南家)の饅頭屋のかたわら、牡丹花肖柏に連歌を、清原宣賢や吉田兼右に学問を習い、漢詩に精通した学者として知られていました。そして、室町時代に刊行された国語辞書「節用集」の改訂を行い、出版しました。この節用集は、「饅頭屋本節用集」と呼ばれるようになりました。このため林宗二は印刷、出版の祖神とされているようです。このため、毎年9月15日には学識者、印刷・出版業界、歌人、俳人、郷土史家などが集まって「節用集顕彰祭」が行われています。











・林神社(りんじんじゃ)
 住所:奈良県奈良市漢国町2
 電話:0742-22-0612
 営業時間:6:00〜18:00
 定休日:無
 料金:無
 駐車場:有
 アクセス:JR、奈良駅から徒歩約8分