嚴島神社(いつくしまじんじゃ)

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更新日:
 2019年4月26日



◎嚴島神社、厳島神社(いつくしまじんじゃ)(2019年4月11日)
 「嚴島神社(いつくしまじんじゃ)」は、一般的に「厳島神社」とも表記されますが、広島県廿日市市の厳島(いつくしま、別名、宮島)にある神社です。海上に浮かぶ朱塗の大鳥居と社殿が有名な神社です。
 嚴島神社は推古元年(593年)に、この地方の有力豪族、佐伯鞍職(さえきくらもと)が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜の現在地に市杵島姫命(いちきしまひめのみこと、いつきしまひめのみこと)を祀る社殿を創建したことに始まるとされています。
 厳島は、太古からその島の姿と、弥山(みせん)を主峰とする山々と、昼なお暗い原始林に覆われた山容に霊気が感じられたところから、周辺の人々の自然崇拝の対象となり、島そのものが神として信仰されていたようです。「神に斎く(いつく = 仕える)島」という意味から、「いつくしま」と呼ばれるようになったようです。
 このように「島そのものが神様」として信仰されていたことから、島の木を切ったり、土を削ったりすることは神様を傷つけることになります。このため、島の土地を傷つけることなく社殿や鳥居を建てる策として海の上に造ったそうです。
 久安2年(1146年)には平清盛が安芸守に任ぜられました。平清盛は保元6年(1156年)の高野山大塔の落慶法要の際、高野山の高僧から「厳島神社を厚く信奉して社殿を整えれば、必ずや位階を極めるであろう」と進言を受けました。そこで厳島神社を深く信仰し、1168年(仁安3年)頃、当時の寝殿造りを模した社殿を造営しました。また舞楽を大阪四天王寺から移したほか、平清盛をはじめ一門によって法華経を写経し、清盛の願文(がんもん)と共に奉納しました。この写経は「平家納経」と呼ばれ、1897年(明治30年)12月28日に旧国宝に指定され、1954年(昭和29年)3月20日に国宝に指定されています。(厳島神社が所蔵しており、複製の一部が厳島神社宝物館で公開されているそうです。)平家一門の隆盛とともに嚴島神社も栄え、平家の氏神となりました。
 平家滅亡後は、源氏をはじめとして時の権力者の崇敬を受けていましたが、建永2年(1207年)と貞応2年(1223年)の2度の火災によって建物の全てを焼失してしまいました。現在、残っている社殿は仁治年間(1240年〜1243年)以降に造営されたものです。
 戦国時代に入り、世の中が不安定になると社勢は徐々に衰退していきました。しかし、毛利元就が弘治元年(1555年)の厳島の戦いで勝利を収めて厳島を含む一帯を支配下に置き、厳島神社を崇敬するようになると再び隆盛しました。毛利元就、隆元父子は天神社を創建し、反橋(そりばし)や大鳥居の再建、社殿の廻廊を張り替えました。また、能舞台を寄進し、演能するなど、その後の嚴島神社の発展に大きく寄与しました。
 江戸時代には厳島詣が民衆に広まり、門前町や周囲は多くの参拝者で賑わったそうです。
 明治元年(1868年)に神仏分離令が発令され、明治新政府が派遣した大参事によって社殿が「仏式」と判断され、神仏分離の原則によって社殿の焼却が命じられました。そこで嚴島神社の棚守(宮司に相当)が東京の明治新政府に直訴し、その結果、社殿の焼却は免れたものの、仏教的と考えられた社殿の彩色が全て剥がし落とされて「白木造」に改められ、千木と鰹木が新設されるなどの「復古」が行われました。また大経堂(千畳閣)は内陣の木鼻を切り落とし、仏像などを撤去したうえで末社「豊国神社」に改めるなど、社殿の損壊と分離が行われ、大聖院(旧別当寺)、大願寺といった寺院が独立しました。
 明治8年(1876年)には傷みが進んでいた大鳥居が建て替えられました。何年もかかって主柱となる材料(楠の自然木)を探し出し、宮崎県の現在の西都市と香川県の丸亀市から調達し、他の部材は広島市や宮島内で調達し、再建されました。

・大鳥居









・石の大鳥居



・神社入口(切妻造り)

























・鏡の池



・反橋(そりばし)
 別名、勅使橋(ちょくしばし)。1557年(弘治3年)、毛利元就、隆元親子によって再建された。





・五重塔





・嚴島神社(いつくしまじんじゃ)
 住所:広島県廿日市市宮島町1-1
 電話:0829-44-2020
 アクセス:宮島港フェリー乗り場から徒歩約15分