水鏡天満宮、水鏡神社

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更新日:
 2020年11月25日



◎水鏡天満宮(すいきょうてんまんぐう)、水鏡神社(2017年11月5日)
 「水鏡天満宮(すいきょうてんまんぐう)」は、九州最大の繁華街「天神」であり、福岡市の中心部である「天神」にある天満宮です。「水鏡神社(すいきょうじんじゃ)」とも呼ばれるそうです。
 社伝によると延喜元年(901年)、菅原道真が大宰権帥(だざいのごんのそち、だざいのごんのそつ)に左遷されて博多に上陸した時、四十川(しじゅうかわ、現在の薬院新川)の清流に映った自分のやつれ顔をみて嘆き悲しんだそうです。その場所は、現在の薬院新川にかかる姿見橋付近だったと言われているそうです。この時、菅原道真が「この地が死時有(しじゅう)の地だ」と言ったことから、この川が「四十川(しじゅうかわ)」と呼ばれるようになったそうです。そうだとすると、菅原道真が自身の顔を見た川は、それまで何と呼ばれていたのか気になりますが、情報がありません。
 後世、その地に社殿を建てて「水鏡天神(すいきょうてんじん)」、あるいは「容見天神(すがたみてんじん)」、「四十川天神(しじゅうかわてんじん)」と呼ぶようになったそうですが、創建年代の詳細は不明なようです。
 本来、「天神」という言葉は特定の神を指す言葉ではありませんでした。大宰府に左遷された菅原道真の太宰府への移動はすべて自費、左遷後は俸給や従者も与えられず、政務にあたることも禁じられ、大宰府浄妙院で謹慎させられる日々だったそうです。そして左遷から2年後の延喜3年(903年)2月25日、菅原道真は大宰府で薨去し、安楽寺に葬られました。この後、菅原道真を失脚させた人達に不幸が起きました。延喜8年(908年)に菅原道真が失脚するきっかけを作った藤原菅根が病死し、延喜9年(909年)には昌泰の変(昌泰4年1月25日(901年2月16日))によって菅原道真を左遷した中心人物である藤原時平が39歳で病死しました。延喜13年(913年)には藤原時平と結託して菅原道真を失脚させた右大臣、源光が狩りの最中に泥沼に沈んで溺死しました。さらに伯父の左大臣、藤原時平の後ろ盾によって延喜4年(904年)にわずか2歳(満2か月)で皇太子に指定された保明親王が延喜23年(923年)3月21日(923年4月14日)に21歳で薨御しました。これらが菅原道真の祟りとの噂が広がり、延喜23年(923年)4月20日(923年5月13日)に醍醐天皇は菅原道真を従二位大宰員外帥から右大臣に復し、正二位を追贈する詔を発し、菅原道真追放の詔を破棄しました。しかし延長8年(930年)6月26日、朝議中の清涼殿が落雷を受け、菅原道真の追放に関与した大納言、藤原清貫をはじめ朝廷の要人に多くの死傷者が出ました。それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御しました。これらも菅原道真の怨霊が原因とされ、天暦元年(947年)に北野天満宮において神として祀られるようになりました。これにより菅原道真に対する畏怖や信仰が広まり、天満大自在天神、火雷天神、渡唐(宋)天神など、様々な形で菅原道真を指すようになり、大宰府の安楽寺(天満宮安楽寺、現在の太宰府天満宮)と京都の北野天満宮を中心に信仰が広がりました。したがって「水鏡天神(すいきょうてんじん)」、あるいは「容見天神(すがたみてんじん)」と呼ばれる社殿が建てられたのは950年以降ではないかと考えられます。
 1612年(慶長17年)に福岡藩、初代藩主、黒田長政によって「水鏡天満宮」として福岡城の鬼門にあたる現在の地に移転されました。1641年(寛永18年)には二代藩主、黒田忠之が社殿を再建したそうです。慶安〜寛文の頃(1648年〜1673年)に描かれたと考えられている「福岡城下屋敷図 全」には、現在の場所に「天満宮」と記されているそうです。
 この場所は博多・中洲と福岡をつなぐ重要な橋(現在の西中島橋)の出入り口に当たります。そのためか1674年(延宝2年)の秋の祭礼の折に奉納された「水鏡天満宮縁起」では「橋口天満宮」と記されているそうです。また1703年(元禄16年)の「天満宮御神田寄進状」の宛名は「橋口天神」となっているそうです。神社の入口も、当時は橋に向かって東側にあったそうです。



























・水鏡天満宮(すいきょうてんまんぐう)、水鏡神社
 住所:福岡県福岡市中央区天神1-15-4
 電話:092-741-8754
 アクセス:地下鉄、天神駅から徒歩、約5分