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更新日:
2025年8月5日
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◎護国山 天王寺(2022年5月22日)
「護国山 天王寺」は谷中霊園の隣にあるお寺です。谷中には多くのお寺がありますが、最も古いお寺だそうです。鎌倉時代後期、土豪、関小次郎長耀(せき こじろう ながてる)が、当地に立ち寄った日蓮聖人に帰依して草庵を作り、弟子の日源(〜正和4年9月13日(1315年10月11日))が法華曼荼羅を勧請して長耀山感応寺と称したのが開創と伝えられているそうです。すなわち鎌倉時代後期、1315年以前に創建されたようです。一説には、創建は1274年(文永11年)とのことです。関小次郎長耀が日蓮聖人に帰依して創建したことから、当初は日蓮宗、不受不施派のお寺でした。
その後、室町時代に目黒碑文谷の法華寺(現在の天台宗、円融寺)から日耀が転住、中興してから永らく栄えたそうです。しかし、江戸時代になると不受不施派は江戸幕府から弾圧を受けるようになりました。法華信者以外からは布施を受けず、他宗派の僧には布施を施さないという不受不施派を江戸幕府は邪宗と認定、改宗を命じました。
1698年(元禄11年)、幕府より強制的に改宗が命じられると、これに抵抗した日蓮宗15世、日遼と日蓮宗14世、日饒は八丈島へ遠島になりました。そして聖人像はじめ、日蓮宗関係の品々もそれぞれ近隣の瑞輪寺などの同宗寺院に移管され、廃絶の危機に瀕しました。
廃寺になるのを惜しんだ東叡山輪王寺の住職である公弁法親王が寺の存続を望み、天台宗寺院として存続することを幕府に説き、5代将軍、徳川綱吉に認められました。そして翌1699年(元禄12年)、天台宗1世に千駄木大保福寺の慶運大僧正(後、長野善光寺を中興)を迎え、感応寺は天台宗のお寺となりました。また感応寺が寛永寺(東の比叡山)の北方に位置することから、延暦寺の北方にある鞍馬寺を連想、鞍馬寺が毘沙門天を奉安して国家安穏、仏法護持を祈願しているのにならい、比叡山飯室谷円乗院より伝教大師親刻とされる毘沙門天立像を移して本尊としました。
その後、1747年(延享4年)と1748年(寛延元年)に立て続けに火災に遭い、本堂、諸堂、坊舎などが焼失したものの、間もなく再建されたそうです。しかし、1772年(明和9年)に再び火災に遭い、さらに1785年(天明5年)の火災では佛殿、堂宇、庫裏、僧房、鐘樓に至るまで全てが焼失したそうです。
その後、1817年(文化14年)には、毘沙門天の十種福の縁由によって、寺門維持のため幕府から富くじの興行を許されたそうです。この富くじは目黒不動、湯島天神とともに「江戸の三富」に数えられるほど賑わったそうです。しかし、富くじは老中、水野忠邦の天保の改革で禁令が出され、1842年(天保13年)に廃止されました。
1833年(天保4年)に中山法華経寺の日啓らが、感応寺を再び日蓮宗とする運動を展開しました。輪王寺宮舜仁法親王の計らいにより、この企ては叶わなかったものの、これを機に長耀山感応寺から現在の護国山天王寺へと改称されました。また、その代わりに雑司ケ谷鼠山に感応寺の名跡を継いだ日蓮宗の寺院が建立され(1837年(天保8年)5月落成)、池上本門寺の末寺となりまましたが、天保の水野越前守忠邦の改革に際して取りつぶされたそうです。
1868年(慶応4年)の戊辰戦争の上野戦争の際は、幕府方の彰義隊の営所となったため官軍との戦闘に巻き込まれ、毘沙門堂(当時の本堂)を含むほとんどの堂宇が焼失し、難を逃れたのは本坊と五重塔くらいだったそうです。
その後、明治新政府の神仏分離政策によって廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる中、1874年(明治7年)、広大な境内地の上地を命ぜられたそうです。東京府に移管された境内地の一部は、都立谷中霊園の一部になっています。そんな中、当時の歴代住職は焼け残った本坊を本堂に修築し、本尊を現在の阿弥陀如来坐像に代え、滅罪等の檀務につとめ、復興を進めたそうです。
天王寺にあった五重塔は戊辰戦争や太平洋戦争の空襲でも焼失を免れていましたが、1957年(昭和32年)7月6日に谷中五重塔放火心中事件で焼失してしまいました。時の住職、第19世、田村貫雄大僧正は、焼け残った五重塔の下層部の残材を使って1961年(昭和36年)に毘沙門堂を再建しました。そして戊辰戦争の際、四谷安禅寺に避難させて無事であった毘沙門天、吉祥天、善膩師童子(ぜんにじどうじ)の2脇侍像(いずれも江戸時代の作)とともに安置しました。












・護国山 天王寺
住所:東京都台東区谷中7-14-8
電話:03-3821-4474
営業時間:6時〜17時
定休日:無
料金:無
駐車場:有
アクセス:JR、日暮里駅、南口から徒歩約2分
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